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ブックマーク / number.bunshun.jp (11)

  • 「日本人選手が食堂にいない…」いったいなぜ? パリ五輪「不評だった選手村の食事」のウラで…大躍進フェンシングを支えた“超人気店のおむすび”(齋藤裕)

    現地時間8月11日に閉幕を迎えたパリ五輪。日選手団は海外開催の五輪では最多となる計45個のメダルを獲得した。その躍進の一因には、日ならではのの面でのサポートがあった。

    「日本人選手が食堂にいない…」いったいなぜ? パリ五輪「不評だった選手村の食事」のウラで…大躍進フェンシングを支えた“超人気店のおむすび”(齋藤裕)
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    rain-tree 2024/08/16
  • 「雪崩で行方不明の可能性も」冬のアラスカで”遭難”して…ある世界的登山家が「引退」を決断した瞬間(中村計)

    史上最年少でデナリ(6190m、米アラスカ州)の冬季単独登頂を果たした世界的な登山家、栗秋正寿(48)が、事実上の「引退」を表明した。九州工業大の山岳部時代の後輩である河原畑健の言葉が忘れられない。「結婚と子どもの誕生は山を辞める二大チャンス。でも栗秋さんは結局、(山へ)行っちゃいましたからね」。一流の登山家たちは命を落としかけても、再び、何事もなかったかのように山へ向かう。彼らが山を辞めるとき――。それは命を落としたときなのではないか。そんな不吉な思いにかられることがある。栗秋も同じだった。しかし、栗秋は無論、まだ生きている。彼はなぜ山を辞める決断をしたのか。きっかけは、2016年の人生初の遭難だった。(全3回/#2、#3へ) 「救助を要請するときは山を辞めるとき」 ――2016年4月、栗秋さんは、アラスカ州のデナリ国立公園にあるハンターという山で遭難し、救助されました。アラスカの山中で

    「雪崩で行方不明の可能性も」冬のアラスカで”遭難”して…ある世界的登山家が「引退」を決断した瞬間(中村計)
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    rain-tree 2021/01/31
  • 彼らは「改革」など望んでいなかった。私はなぜラグビー協会を辞めるのか。(池田純)

    2018年3月23日をもって、公益財団法人日ラグビーフットボール協会特任理事、一般社団法人ジャパンエスアール理事を辞任いたしました。 この職に就いてからわずか11カ月での辞任となります。残念ながらこの決断をせざるをえなかった背景について、説明いたします。 大前提として、私はどのような経緯でラグビー界に属したのか? それは「依頼を受けたから」です。 しかし、いざ内部の人間になってからも、ラグビー協会は私に何かを託して、任せてくれることがなかった。実行の権限とそれに伴う責任を託してもらえないか、と何度も打診してきましたが、実現されませんでした。 会議の場などで、様々な意見の提案もしました。しかし、それがまったく違う結果となり、かたちにならない。意見するだけの立場について、限界を感じることが幾度もありました。 特任理事に招聘されたのみで、行動が許されず、意見さえ取り入れられることがなかった。W

    彼らは「改革」など望んでいなかった。私はなぜラグビー協会を辞めるのか。(池田純)
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    rain-tree 2019/10/18
  • イチロー引退会見で読み取れた、番記者たちの“地獄”と信頼関係。(プチ鹿島)

    記事を書いたデイリーの小林記者はイチローがメジャー1年目の2001年に初めて野球を担当したという。そんなルーキーに当時27歳のイチローは容赦なかったと振り返る。 《「次どうぞ」、「それ、答えなきゃいけないかな」。記者の質問をことごとくはねつける。無言でスルーされる。そこまで厳しくされる理由が分からなかった。》(デイリー・3月22日) それから3年後に初めて単独インタビュー。イチローが求めていたのは「プロフェッショナル」だったことを知る小林記者。 後年、「(あの頃は)地獄でした」とイチローに語ったという。引退を伝える記事の最後は「イチローには感謝の言葉しかない」。 「僕に鍛えられたんだから……」 同じ紙面には「'94年~'97年までオリックス担当」の記者が、 《記者泣かせの選手だった。》 《想定通りにやりとりが進んだことなんてなかった。》 《「学級新聞じゃないんだから」。時に叱られ、呆れられ

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    rain-tree 2019/03/26
  • 「日本の綺麗なロッカー」騒動とは。ツイート削除、解任、そして気高さ。(及川彩子)

    1人の女性のツイートが日、そして世界のサッカーファンの心を掴んだ。 そのツイートには、日本代表が使用したロッカールームの写真が添えられていた。 「これは94分でベルギーに負けた日のロッカールームです。スタジアムでは代表のサポーターに感謝し、ベンチやロッカールームをきれいにし、そしてメディア対応をしました。またロシア語(キリル文字)で『ありがとう』と書かれたメモまで残していきました。すべてのチームの模範だと思います」 そのツイートの主は、オランダ人のプリシラ・ヤンセンスさん。FIFA(国際サッカー連盟)の運営スタッフとして今大会に関わってきた。 オーバータイムで逆転された日本代表が、怒りや悔しさでいっぱいだったことは容易に想像できる。しかしまるで使用前のように清掃、整頓し、メモまで残した姿に感動したのだろう。 「日にはClassがある」 このツイートは瞬く間に広まり、日人はもちろん世

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    rain-tree 2018/07/15
  • 「暴力」を意識しなかった日馬富士。こんなにも遠かった世間と角界の距離。(プチ鹿島)

    今回のスポーツ新聞時評のテーマは、11月14日の火曜日からすべてがはじまったと言っていい。 『ビール瓶で殴打 日馬 暴行疑惑 貴ノ岩頭蓋骨骨折』(スポーツニッポン) この衝撃的な1面がスポニチで報道されて以降、まだ報道合戦が続いている。 当初は「ビール瓶で貴ノ岩を殴った」と伝えられたが、そのあと「ビール瓶は使っていない」という情報が出てきた。一体何が事実なのかわからない面妖さ。それは一般社会からはなかなか見えない相撲界そのもののようにも思える。 「あちらの世界」(相撲界)と「こちらの世界」(一般世間)。この橋渡しをしている1つがスポーツ新聞だ。ただ、同じテーマでも社説の論調が各紙違うようにスポーツ紙でもスタンスは異なる。それが新聞の読みどころ。 「日馬富士引退」という大きな動きがあった翌日(11月30日)。各紙の「記者の目」を見てみよう。相撲担当が見解を述べる、いわば社説のようなものである

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    rain-tree 2017/12/02
  • “ケンカ番長”井手口陽介の成長記。遠藤のパス、今野の動きを盗んで。(佐藤俊)

    「あいつ、すげぇな」 オーストラリア戦の帰り、ファンやサポーターが井手口陽介のことをそう口々に語っていた。鋭い出足で相手のボールを噛みつくように奪い、攻撃では勝利を決定づける得意のミドルシュートを披露した。まさにヒーロー的な活躍で、日ロシアW杯へと導いたわけだが、彼はいきなりポンとその試合に出て、輝いたわけではない。 初めて井手口を見た3年前から、彼はただ者ではない雰囲気をプンプンと発していた。 井手口から初めて“違い”を感じたのは、AFC U-19選手権ミャンマー2014に出場した時だった。エース南野拓実を擁するU-19日本代表に井手口は18歳で招集され、川辺駿や坂井大将とボランチのポジションを争っていた。初戦の中国戦は後半から出場すると、続くベトナム戦ではスタメン出場を果たした。 その試合、井手口は高温多湿の中でほとんど止まることなく走り回り、ロスタイムにゴールを決めた。決勝トーナ

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    rain-tree 2017/09/13
  • 愛される以上に、本人が広島を……。“ほぼ日本人”エルドレッドという男。(前原淳)

    出張先で会った人に突然、真顔でこう聞かれた。 「広島に住んでいるなら、エルドレッドがママチャリに乗っているところを見たことありますか?」 なんじゃそれはと思ったが、それほどプロ野球ファンの間に浸透しているのかと驚いた。 確かに、あの大きな体のブラッド・エルドレッドがママチャリに乗るという話はインパクトはある。だがそれ以上に、こんなにも多くの人に愛されている選手なのだなと再認識させられた。 豪快なアーチのインパクトだけでない。 他にも多くの魅力が196センチ122キロの体には詰まっている。 外国人選手としての球団史上最長契約記録も目前に。 日に来て、もう6年になる。 今年7月には、37歳を迎える。 昨年オフ、新たに2年契約を交わした。このまま7年在籍となれば、2度の日一に貢献したジム・ライトル('77~'82年)を抜き、外国人選手として球団史上最長となる。異国の地で輝かしい成績とともに、

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    rain-tree 2017/06/24
  • 「人と比較せず自分の中で少し頑張る」イチローが野球少年に送った人生訓。(笹田幸嗣)

    「イチロー杯争奪学童軟式野球大会」での閉会式にて。参加した少年野球選手たちの中から、きっと“未来のイチロー”も生まれるはず。 イチロー自らが大会長を務める「イチロー杯争奪学童軟式野球」は、2016年末に21回目の大会を迎えた。 未来の野球界を背負う学童たちに、勝つことの喜び、負けることの悔しさ、また、野球というスポーツが持つ様々な要素を体験してもらい、そこから多くを学んで欲しい――。 大会長にはそんな強い思いがある。 だからこそ、閉会式には自らが毎年足を運び、学童の目線に立ちメッセージを贈る。メジャーの世界でも最高峰の立場に上り詰めた実体験から発せられる言葉の重みと説得力は、まごうことなき金言である。 イチローは人の2倍も3倍も努力したわけではない!? 2016年12月23日。 愛知県西春日井郡豊山町で行われた閉会式には、同大会からプロ野球選手となったDeNAの関根大気外野手(21歳)も駆

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    rain-tree 2017/02/02
  • ランディ・バースが明かす、日本で戦った最高の投手とは?(鷲田康)

    阪神タイガースが球団史上初めて日一の栄冠を手にした1985年。それから30年を経た今も、あのシーズンを改めて振り返ったノンフィクションは、意外なことに存在しなかった。球団創設80周年を迎えた今年、吉田義男監督、主力選手からウグイス嬢にまで取材した『1985 猛虎がひとつになった年』(鷲田康・著)が9月17日に発売される。出版を記念して、には盛り込めなかった話をウェブの短期集中連載でご紹介しよう。第1回目は、あのランディ・バースのインタビュー<前編>だ。 ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布に代打・川藤幸三……。いまテレビで流れるNTTドコモのCMではないが、阪神球団史上ただ1度の日一に輝いた1985年のシーズンを象徴するのは、史上最強とも言われたこのクリーンアップトリオだった。 その核となったのが最強の助っ人、ランディ・バース。不動の3番打者として、この年54塁打、打率3割5分、1

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    rain-tree 2015/09/16
  • <スモールクラブのJ1サバイバル術> サガン鳥栖の浪漫飛行。~“降格候補筆頭”躍進の秘訣~(藤島大)

    傍観者は皆、声を揃えた。「昇格で十分に快挙」。 その見た目に乏しい戦力からして、1年での J2出戻りを誰も疑わなかった。しかし――。 弱者を魅惑の戦闘集団へと変えた気鋭の韓国人指揮官と、 不動のボランチにして主将の言葉から紡ぐ躍進の秘訣。 いつか鳥栖は「終着駅」だった。鉄道の話ではない。Jリーガーのおしまいの場所という意味だ。挫折の果てに辿り着くローカルな小クラブ。北京五輪の日本代表で唯一の得点者、豊田陽平が期限付きで京都からやってきたら、正直、悲哀の二文字が浮かんだ。経営は幾度もぐらつき、嫌な言葉だが「お荷物」と扱われもした。 そのサガン鳥栖が、J1昇格の今季、走って、走って、走り疲れるだろうと思われたのにまだ走り続ける。夏を迎え、秋に差し掛かり、そこから先も足は止まらない。いまや、豊田は太陽の塔のごとく屹立する。 第3節の横浜F・マリノス戦で初勝利、以後、引き分けの勝ち点1を主たる養分

    <スモールクラブのJ1サバイバル術> サガン鳥栖の浪漫飛行。~“降格候補筆頭”躍進の秘訣~(藤島大)
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    rain-tree 2012/11/16
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