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ブックマーク / technique.hateblo.jp (4)

  • インテリごっこの奴隷根性 - Freezing Point

    悪質さは、自分が実際に生きている関係性を黙殺するところにある。 メタ言説さえやれば、すでに生きられている関係実態は分析しなくてよいことになっている(それが大前提なのだ)。 「自分はこれをやっているのだから、あとは褒められて当然。知的生産様式は維持したまま、その枠内でレベルの上下を言われるのはいいが、論点設計そのものは間違っていない」――この時点で間違っている。 「外国でも、学者ならヤクザと付き合ってもかまわない、だから日でもOKなはず」――話が逆。 学問をやっていれば許されるという関係性の前提そのものが何を排除しているかを全然考えていない。 「外国で許されるから構わない」ではなく、むしろ日で先鋭化した現象*1から考え直し、論点設計のあり方をこそ輸出すればよい。 問題への取り組み方をオリジナルに組み直さなくてどうするのか。 「西洋の学者がそう考えているから、私たちもそれに従えば正しい」と

    インテリごっこの奴隷根性 - Freezing Point
  • Freezing Point -  斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 1

    斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 日時: 3月6日(火) 14:00−16:00 場所: ユメンヌホール(大阪大学人間科学部東館 2階 207講義室) 概要: 脳科学ブームの昨今、脳で人間の心や社会が説明できるかのような言説がまかり通っている。 しかし実際には、現時点での脳科学は、人間の心や行動を整合的に説明できる学問たりえてはいない。 精神医学者アンリ・エイは、脳の障害と精神症状との間にギャップがあることをふまえて「器質−臨床的隔たり」と呼んだ。 この指摘はいまこそ有用である。 「階層性−非階層性」をキーワードとして、脳科学による心の解明において、設定されるべき限界について述べる。 聴講してきました。 同講演に参加されていた、谷川茂氏(双風社): 「斎藤環さんのセミナーにいってきました」 以下、音声ファイルや配布されたレジュメなどを元に、大まかな記録をアップします。

    Freezing Point -  斎藤環 「脳はなぜ心を記述できないか」 講演レポート 1
  • Freezing Point

    マルクス『資論 (3) (国民文庫 25)』(p.433)、 第24章「いわゆる源的蓄積」より: 資主義的生産様式の「永久的自然法則」を解き放ち、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、一方の極では社会の生産手段と生活手段を資に転化させ、反対の極では民衆を賃金労働者に、自由な「労働貧民」に、この近代史の芸術作品*1に、転化させるということは、こんなにも骨の折れることだったのである。もしも貨幣は、オジエ*2の言うように、「ほおに血のあざをつけてこの世に生まれてくる」のだとすれば、資は、頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである。 この箇所のドイツ語原文を確認すると Tantae molis erat*3 , die "ewigen Naturgesetze" der kapitalistischen Produktionsweise zu ent

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  • 「すでに生きているコミットメント」はどこへいったのか - Freezing Point

    の難点 (幻冬舎新書) 作者: 宮台真司出版社/メーカー: 幻冬舎発売日: 2009/04/01メディア: 新書購入: 28人 クリック: 233回この商品を含むブログ (227件) を見る「はじめに」より: 振り返ると、ポストモダン化を予兆して「境界線の恣意性」を問題にした二〇世紀的人文知(言語ゲーム論やシステム理論)から、一九九四年あたりから専門家に知られ二〇〇一年以降人口に膾炙(かいしゃ)した「コミットメントの恣意性」を問題にする二一世紀的人文知へと、転回したことになります。 「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。かつて流行した「社会構築主義」や「脱アイデンティティ」といった物言いもこの系列に属します。「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたら

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