強者の屁理屈? 前回エントリのjackさんのコメントへのお答え。(というわけで引き続き非モテ話ですが。) あー、そうか。 ナツさんは、「俺達(非モテ)がモテなくて苦しいのは差別されているからだ」と仰っているんですね。「モテない」ことが問題だと思っていらっしゃる。 私はそうではなくて、「俺達はモテないからという理由で差別されていて苦しい」だと思っていたもので、それは確かに話が全然違いますね。 Leiermannさんの定義によると、非モテとは 「非モテ」というのは「モテ」の否定ではなく、「モテない」状態およびその状態にある人のことなのである。 恋愛に関するある程度の強さの欲求を持つ、あるいは持っていたにもかかわらず、それが過去現在にわたって全く充足されていない人 であるそうです。 これを非モテの基本像と考えるとしたら、「モテたいという欲求があるのにモテないことが苦しい」というのがまず先に来る
以前、僕の「コミュニケーション・スキル2」というエントリーが難しいとチャマさんの頭を悩ませてしまったようですので、トラックバックをいただいたのをいい機会としてもう一度スッキリこの問題を整理してみたいと思います。基本的には新しい要素は何も加わっていません。同じようなことを感じてる人はいっぱいいるわけですし、今回はただ自分自身の頭の中を整理するためだけにちょっと書いてみます。 つまりこういうことでどうでしょうか? 一言でいって、僕は生きることそのものがコミュニケーションだと思っているわけです。したがってチャマさんがおっしゃってるような、何気なく生き延びるために行ってることも当然立派なコミュニケーションだし、死の匂いのするような激情もコミュニケーションなのであって、その意味でやはりチャマさんのおっしゃってることと、僕の考えてることはそれほど違うとは思えません。 むしろ僕が問題にしたいのは、そ
185 :('A`):2005/11/13(日) 20:17:02 0 あのね、ちょっとだけ言わせてもらってもいいですか。 この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。 実際には、現実には、絶対にありえないことを、 思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、 反則以外の何物でもない。 ファンタジーの世界、少女漫画の世界なら、そこにはフィクションとしての前提があり、 それに則った作品としているから、見る側にも、救いがある。 それは、受け手が、初めから「嘘の世界」を前提として見ているからだ。 例えば、漫画「奇面組」や「彼氏彼女の事情」など。初めからネタの世界でしょう。 手塚治虫先生の世界でいえば、「ヒョウタンツギ」の登場により、読者は救いを得られる。 ドラマや映画なら、監督がいて役者が演技している裏舞台の世界が前提としてある。 このアニメ作品には、それらが一切無い。 見ている
このたびクリルタイに参加するという栄誉に恵まれた。 時間を忘れ、非常に有意義なひとときを過ごすことができた。 非モテの向かうべき方向性について、基本的な部分で合意できたように思う。それは、真の非モテを探してはいけないということだ。 俺は、「非モテは内ゲバをしている場合ではない」という考えに同意する。内部に序列を作りだし、「この線より向こう側にいるお前なんて非モテじゃない」と切って捨てるやり方は破滅を招く。非モ天下一武道会を開催して最後に「真の非モテ」が残ったところで、モテはそれをあざ笑うだけだ。 もう一度、非モテという言葉を考え直そう。「モテに非ず」と書いてあるじゃないか。非モテが敵視すべきは、自分より恵まれている癖に非モテを名乗る裏切り者なんかじゃない。非モテコミュニティの中で頂点に立っているものを、そのコミュニティごと馬鹿にするモテこそが、本来非モテが敵とすべきものだったはずだ。 では
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