が、ようやく八幡に到着し、内野の大軍を見下ろした山名氏清は、そうは思わなかった。 「何ということだ。当然将軍は東山か比叡山に陣を布くと思っていたが、平地の内野に布いてきたか。つまり将軍は長期戦を望んでいないということだ。戦は一日で終わるであろう」 「それでこそ将軍!」 「鬼こごめ」と恐れられた山名高義(たかよし。氏清の弟。義数とも)と小林義繁(こばやしよししげ)が長刀をブルンブルン振り回して奮い立った。 「明日は年末大掃除と行きますか」 「腕が鳴るぜえ!」 氏清は思わず吹き出した。 彼は髪を切り、歌を詠むと、それを和泉堺(大阪府堺市)にいる妻の元へと送り届けさせた。 十二月二十九日夜、ついに八幡・峰の堂両陣に動きがあった。 氏清軍三千騎は三手に、満幸軍二千騎は二手に分かれ、それぞれ南と西から京を目指したのである。 山名軍の陣容は右のとおり。 「ワー!ワー!」 十二月三十日未明の桂川を渡る山
明徳三年(1392)正月四日、内野合戦における論功行賞があった。 これによって、山名氏清らの所領十一か国は、それぞれ以下の諸将のものとなった。 山城 山名氏清 → 畠山基国 和泉 山名氏清 → 大内義弘 丹波 山名氏清 → 細川頼元 丹後 山名満幸 → 一色満範 但馬 山名氏清 → 山名時煕 因幡 山名氏家 → 山名氏家 伯耆 山名満幸 → 山名氏之 出雲 山名満幸 → 京極高詮 隠岐 山名満幸 → 京極高詮 美作 山名義理 → 赤松義則 紀伊 山名義理 → 大内義弘 このうち、氏清とともに戦っていた氏家が因幡守護を取り上げられずにすんだのは、上洛して足利義満に猛烈に謝罪したからだという。 それに比べ、義理は戦闘に参加していなかったにもかかわらず、領国をすべて没収されてしまった。 「本領安堵の約束だったじゃないですか!」 義理は抗議したであろうが、細川頼之に、 「そんな約束しましたかな?最
一方、山名煕氏は残兵十七、八騎のうち七騎を率いて別に戦っていた。 が、まもなく五騎が討たれ、二騎は逃げてしまった。 「負けるもんかー!」 煕氏は一人になっても戦っていたが、とうとう乗っていた馬まで殺され、敵兵に取り囲まれてしまった。 「ぼうや、戦争ごっこはここまでだ」 煕氏は太刀を突きつけられて、座り込んで観念して目をつぶったが、 「やめろー!」 すんでのところで山名氏清配下の狩野平五(かのうへいご)が現れ、敵兵を斬り倒してくれた。 「さあ!私の馬にお乗りください!」 「おじさまは?」 「残念ながら、もはやこの世にはおられません……」 狩野は泣いた。そんな彼も伝えている最中に、 ドブス! 「おう!」 と、背後から敵に突かれて死んでしまった。 「おじさま!」 ぶわさっ! 煕氏はムササビののように馬から飛び下りると、そのまま氏清の首のない遺体に覆いかぶさって号泣した。 「わあおー!おじさまー!
長島は、木曽(きそ)三川河口にある三角州である。 三角州といっても南北に長い川島で、現在では陸続きになっている。 「そうか。長いから『長島』って名づけられたのか」 そう思われた方は、残念ながら間違っている。 長島というのは「長い島」という意味ではなく、「七島」から転じたものだという。 戦国時代当時、長島は七つの島に分かれていた。 長島だけではなかった。 現在でこそ木曽三川は治水工事によって三本にくっきり分れているが、当時は三つの川が絡み合って網の目のように合流と分流を繰り返していたため、大小さまざまな中州が木曽三川下流域、つまり、伊勢・美濃・尾張国境近辺に点在していたのである。 そしてこの三国にまたがる輪中地帯が、長島一向一揆の勢力範囲であった。 一揆の本城は願証寺(がんしょうじ)。 文亀元年(1501)頃、蓮如の十三男・蓮淳(れんじゅん)が建立した城郭寺院である。 この寺に、本山・石山本
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