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小早川秀秋に関するrikuzen_gunのブックマーク (2)

  • 『戦国の城:美濃松尾山城』中井均(歴史群像No.105)を読んで 「秀元様、なんか関ヶ原で合戦になったみたいですが」「は? なんで? 大垣は?」 | Drupal.cre.jp

    私の関ヶ原の合戦の一番古い記憶は、小学校のときに読んだ「まんが日歴史」でお坊さんのような大谷吉継が「ふ、小早川の裏切りは予定のうちよ」とうそぶいている場面である。 その裏切り者とされる小早川秀秋がいたのが、松尾山だ。関ヶ原を見下ろす山の上である。 その後、関ヶ原を題材にした小説漫画映画ゲームやらを通して、あれこれ妄想を膨らませてきた私の中で、空白というか、意味不明のまま保留の棚に置いておいたのが、実は小早川の裏切りではなく、毛利秀元の不可解な動きである。 もちろん、東軍と内通していた吉川広家が秀元を押さえたなどの理由はあるだろうが、それにしても、妙な位置で遊軍になっている。 いったいなんで、彼らはこんなところに取り残されたのだろう? その長年の疑問であるが、中井均さんの『戦国の城:美濃松尾山城』の記事を読みと図版をながめていて、なるほど、と得心した。 南宮山の陣城は、大垣

  • 『大阪物語』より、小早川寝返り

    2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板  http://ikura.2ch.net/sengoku/ 32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/20(火) 23:06:18.00 ID:cZ6UPRIg 江戸初期に成立したとされる軍記物『大阪物語』より、小早川秀秋の寝返りの模様を見てみよう。 『さて、左衛門太夫(福島正則)は関ヶ原東の入り口、南の山の腰に人数を置いて、物見の家臣二人に 「敵の人数の立てようを見て参れ」 と命じ、る。帰還した彼らは 「先ず南の端、西の川端に小川左馬(祐忠の事か?)、それより北に続いて脇坂中書(安治)、その北に 大谷刑部(吉継)、北東に小西摂津守(行長)、少し山を隔てて戸田武蔵(勝成)、また北東に続いて 治部少輔(石田三成)、島津兄弟」 そのように諸将が並み居る状況を報告した。

    『大阪物語』より、小早川寝返り
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