現在では人気の関西芸人でも芸にすることが多い「いじり」。しかし人格を揶揄するこの笑いはかつて関西でも下品とされていた。「ひょうきん族」から笑いが変質し、今や学校現場でのいじめの一形態として定着している。笑いをもう一度見つめ直す必要がある。
![「いじり」という下品な笑い](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/3e8a112ea78cbdc01a91670052aa0e21c4570f75/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fs.tgstc.com%2Fogp3%2F00b6f205abb10652ab55be2678aaebb0-1200x630.jpeg)
現在では人気の関西芸人でも芸にすることが多い「いじり」。しかし人格を揶揄するこの笑いはかつて関西でも下品とされていた。「ひょうきん族」から笑いが変質し、今や学校現場でのいじめの一形態として定着している。笑いをもう一度見つめ直す必要がある。
最近論理学の本を読んでいたんだけど、そうしたら、僕らが生きているこの世界は生の現実ではなくて現実と見分けが付かないくらい精巧なコンピュータシミュレーションの中の世界である可能性が極めて高いということが分かった。僕らはみんなコンピュータゲームの中の人工知能みたいなものだ。 現在の科学技術ではまだ人間と同じように意識を持つプログラムや世界全てをシミュレーションするようなプログラムは作れないけれど、遠い未来、もっと技術が進めば作れるようになる可能性が高い。そして、シミュレーションの中の存在は、それが現実ではなくてシミュレーションの中ということに気づくことはできない。 漫画や小説の中の人物が自分がフィクションの中の存在だと気づけないのと同じだ。 なぜ現実ではなくてシミュレーションである可能性が高いと言えるのか。喩え話で書いてみる。 ・問題1 お互いに見分けのつかない袋Aと袋Bがある。 袋Aには赤い
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