西本願寺総門。かつて本願寺は、織田信長と死闘を繰り広げていた。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート) 真宗大谷派の浄顕寺(愛知県半田市)に「血判阿弥陀如来絵像」が伝わっているとの報道があった。滋賀県長浜市の信徒らは、この仏画に自らの名前と血判を認め、打倒織田信長を誓ったのだ。なぜ、織田信長と本願寺は長い抗争を繰り広げたのだろうか。 ■本願寺とは 本願寺とは、鎌倉時代に親鸞が開いた浄土真宗の一本山である。もともと本願寺は、真宗のなかでも弱小勢力に過ぎなかった。応仁・文明の乱以降、蓮如が教団を拡張して大きな影響力を持った。その後、本願寺は加賀を支配するなどし、戦国大名が恐れるような存在になったのだ。 では、信長と本願寺との戦いは、どのように考えられているのだろうか。 通説的に言うと、本願寺は民衆勢力を結集し、武家勢力の代表である織田信長に戦いを挑んだとされてきた。一向一揆は
フランスの人類学者・歴史学者であるエマニュエル・トッド氏は、ソ連の崩壊やアラブの春、トランプ大統領の誕生などを予見したとして知られる。人口に関する膨大なデータと蓄積された知識から歴史を分析、導き出された結果から未来の世界をも描き出す。 『エマニュエル・トッドの思考地図』(筑摩書房)では、大野舞氏(本書翻訳者)との対話から「現代最高の知性」といわれるトッド氏が、自らの思考方法を「歴史」(長期的な視点)、「データ」(ひたすら事実を集めること)、「外在性」(視点を外の世界に置くこと)──の3点から解剖する。 コロナウイルスによって暴かれたグローバリゼーションの影、米ロ関係と中国の脅威、日本の果たすべき役割、そしてパンデミック以後の世界の道筋についてトッド氏に聞いたインタビューの後編。(聞き手:長野光 シード・プランニング研究員、インタビュー通訳・翻訳:大野舞 ※インタビューは2021年2月12日
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