1940年の夏は、日本がドイツとイタリアとの三国軍事同盟の締結に踏み切り、イギリス・アメリカとの対立が決定的となった重大時期であったが、その当時、東京にある駐日イギリス大使館では、駐日大使ロバート・クレーギー(1883-1959)と、館員ジョージ・サンソム(1883-1965)との間で対日政策をめぐる根本的な意見の対立があった。 クレーギーは少年期を日本でしばしば過ごし、1920年代から30年代にかけて開催された数々の軍縮会議において日本側全権団と親しく交流した経験を持つ、いわゆる「知日派」外交官と目されていた。そして駐日大使として37年に着任して以降、英米との友好関係維持を望み国際協調的な対外路線を追求する、日本国内の「穏健派」に着目した。クレーギーは、彼ら「穏健派」を支援し、かつ、イギリスが日本に対してある程度譲歩することによる、日英間での和解の可能性が開かれることを期待した。 太平洋