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思想-ベイトソンに関するrrmmjjffのブックマーク (2)

  • 脱構築を脱構築する(全体) ラカン的、デリダ的主体論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    *所々、未完成です。しばらく完成を目指すほどの時間がないので、とりあえずおきました。ご興味のある方はどうぞ。 1 収束(主体)−拡散(動物) 2 否定神学/脱構築 3 マクドナルド化と動物化 4 収束−発散構造論 5 終わりなき連鎖としての否定神学−脱構築 1 収束(主体)−拡散(動物) 1) デリダの構造論と倫理論 たとえば「日人」を考えましょう。日人は、「日人」に対して、「われわれ日人というのは・・・」「日人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。 デリダはこれを形而上学と呼びます。「日人」というエクリチュールは、様々な場面の中で、その都度その都度、使われ、その都度その都度の意味を持つものでしかありません。「日人」というような共有された同じ意味は、そのはじめ(過去)にあるわけではなく、あるようにふるまっているのです。 脱構築とは、このような形而上学に対

    脱構築を脱構築する(全体) ラカン的、デリダ的主体論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 家族療法における権力問題

    1、 はじめに:問題設定 【1】権力が問題になるというのはいかなる事態であるのだろうか? この問題を、家族療法における権力現象の処遇に着目することによって考えてみよう(1)。 はじめに注意しておいてほしいのは、権力に関するこのような問題設定が従来のそれに比べていくぶん位相を異にしているということだ。これまでにも権力現象が、社会学において最も重要な問題のひとつとして理論布置の一角を占めてきたことは言うまでもあるまい。けれどもそこでの問いはほとんどの場合「権力の態」を問うもの、すなわち「権力とは何か? それはどのように作用し、どのような効果を持つものなのか?」といった形で問われるものであった。この問いに対する答えは、これまでの長い議論の歴史が示すようにさまざまであり得るが、いまのところそれらの間で決着がついているとはいいがたいし、決着がつきそうな見込みもない。むしろ(とりわけ80年代を通じて

    rrmmjjff
    rrmmjjff 2009/02/10
    「家族療法(少なくともその主要な流れの一つ)はそのような日常的・常識的権力概念を根本的に拒否することからその歴史を始めた。この理論的選択は、家族療法の源流(の一つ)であるグレゴリー・ベイトソンの認識論(いわゆる関係論的認識論)から直接に帰結するものだ(3)。ベイトソンによると、システム内部においてはすべての要素が互いに関係し合い、影響を与え合いながら存続しており、ある要素が被った変化の原因=責任を他の特定の要素に専一的・排他的に帰属するわけにはいかない。要素間の因果関係は常に循環的あるいは相互的なのであって、決して直線的あるいは一方的ではあり得ないのである。したがって、要素間に一方向的な権力関係を想定することは認識論的な誤謬であり、すべては相互関係において成り立っているのだとして、ベイトソンは次のように主張する。 」
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