アメリカ軍の戦略爆撃機B29によって、東京一帯が大きな被害を受けつつあった太平洋戦争末期の昭和20年(1945)6月頃、のどかな田園が広がっていた柏市の郊外に、一人の老紳士が疎開してきました。 彼の名前は牧野伸顕。文久2年(1862)、明治維新の功労者である大久保利通の次男として鹿児島に生まれ、明治4年(1871)新政府の遣欧使節団の一員として、アメリカに留学。外務省書記生としてロンドン赴任を手始めに各国の駐在公使を務めた後、文部大臣・農商務大臣・外務大臣などを歴任します。第1次世界大戦の講和を議した大正8年(1919)のパリ講和会議では、首席全権大使西園寺公望とともに次席全権として参加し、日本側の実質的な中心人物として役割を果たしました。 また、大正天皇の病気が悪化したころから昭和天皇の即位まで宮中の事務を統括者として乗り切り、天皇から厚く信頼されるなど、穏健な米英協調派の重鎮として昭和