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2006年12月4日のブックマーク (3件)

  • 陸軍悪玉論 - Wikipedia

    この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2009年3月) 陸軍悪玉論(りくぐんあくだまろん)とは、大日帝国陸軍に第二次世界大戦にかけての日の軍国主義化、日中戦争(支那事変)の拡大、国際政治における孤立、および太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦と敗戦の全責任があるという主張。これに関連して大日帝国海軍が歯止めとなり、太平洋戦争開戦についても消極的であったとする見方の海軍善玉論(かいぐんぜんだまろん)も主張される。 概要[編集] 日の敗戦直後から、「陸軍は満州事変や支那事変(日中戦争)を引き起こし、また昭和の軍国主義政治は陸軍の軍閥によるものである」という主張があり、長らく旧日軍や日近代史を論ずるに当たって人々の間で有名であった風潮である。 しかし、戦後しばらく通説的であった陸軍悪

    ryokusai
    ryokusai 2006/12/04
    結局陸軍に比べ身近でないことと「格好いい」ことだけが海軍善玉論の理由だつたのではなからうか。あれだけ負けてその程度の認識しかできないなら戦争などしない方がいいな。
  • ノモンハン事件 - Wikipedia

    ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争。第一次(1939年5月 - 6月)と第二次(同年7月 - 9月)の二期に分かれる。 1930年代に、満洲国、後に日(大日帝国)と、満洲国と国境を接するモンゴルを衛星国にしていたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つが、両国の後ろ盾の大日帝国陸軍とソビエト赤軍との間で最大規模の軍事衝突となった[19]。 諸外国では、「ハルハ河戦役」などと呼ぶことが多い。 清朝が1734年(雍正12年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とフルンボイル平原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。 ただし帝政ロシアの1/84,000地図(1906年)は、10 - 20 kmほ

    ノモンハン事件 - Wikipedia
    ryokusai
    ryokusai 2006/12/04
    被害の多寡以前に、作戦目的を達成できなかつた日本の敗北は事実。/「一方で、意外なことにノモンハンでもっとも厚い装甲をもっていたのは4両が投入された日本軍の九七式中戦車(最大装甲25mm)であった。」
  • 山下奉文 - Wikipedia

    1885年(明治18年)11月8日、開業医である父・佐吉、母・由宇の次男として高知県香美郡暁霞村(現香美市)に生まれる。2歳の時、父親の故郷である長岡郡大杉村(現大豊町)に移る。兄・奉表は海軍の軍医となり最終階級は海軍軍医少将。弟・奉守、妹・照猪、妹・久寿猪の五人兄妹。 暁霞(あかつか)尋常小学校、韮生(にろう)高等小学校、海南中学校(同窓に沢田茂)卒。 広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校(第18期、兵科・歩兵)卒業。見習士官を経て1906年(明治39年)6月26日に陸軍歩兵少尉に任官(広島・歩兵第11連隊附)。1916年(大正5年)11月25日には陸軍大学校(第28期)を卒業(席次は6位、御賜の軍刀を拝受[2])。 参謀部部員、陸軍省軍務局課員を務めるとともに、スイス・ドイツ・オーストリアにも駐在。帰国後は歩兵第3連隊長、陸軍省軍事課長を歴任し、1934年(昭和9

    山下奉文 - Wikipedia
    ryokusai
    ryokusai 2006/12/04
    「処刑台は捕虜の日本兵に作らせ、山下を慕う兵たちは涙ながらに作業に従事した。」確かに酷い話だが、立場が逆なら敵国の軍人を全力で弁護する法務将校は我が国にゐただらうか。