原発事故さえなければ思いも離れることはなかった――。東京電力福島第一原発の事故による避難生活は、大切な家族の関係に暗い影を落とすこともある。離れている距離や時間に加え、放射能を巡る価値観の違いなどが「溝」を広げ、離婚に至る夫婦もいる。 夫はとどまった 子ども3人と大阪府に避難した女性(41)は、福島市の自宅に残った夫と2015年に別れた。 福島市は福島第一原発から約60キロ。放射能の影響を恐れ、事故翌年の12年、身寄りも土地勘もない大阪へ移った。できるだけ東日本から離れつつも、福島とは陸続きの本州、といった条件から選んだ。 環境の変化を嫌ってとどまった夫は、互いに行き来して会うたびに「戻ってこないの」と聞いてきた。女性は「いつか戻れるのでは」と期待もしたが、避難が長引く中、子どもたちの生活は大阪で落ち着いてきていた。自身も福島の復興は願いつつ、「事故現場の収束のメドはたっておらず、まだ安心
東日本大震災から1年に合わせて来日している、世界的なポップスターのシンディ・ローパーさんが、12日に日本外国特派員協会で開いた記者会見の全文を掲載します。 無名時代に日本料理店で働いていたこともあるというシンディさん、会見では日本のファンや被災地への思いとともに、大ヒット曲「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハブ・ファン」の邦題名にまつわるエピソードなども披露しました。 シンディ・ローパーさん記者会見 3月13日13時から日本外国特派員協会にて ~ニホンを忘れないで~ シンディ: こういう場は初めてなのでどんな感じになるのか分からないのですが、依頼があったのでどんな風になるかな?と思いながら依頼を受けることにしました。みなさん、元気ですか? 昨年私達は、地震のあと残りました。というのもこの国には1983年以来、長い関わりがありますし。日本にいる仲間たちと一緒に密接に働いてきました。長い時間、実
(車両のサーベイを受けている。サーベイに当っているのは、中国電力から応援にきた放射線管理員。Jヴィレッジ・除染場) 反貧困の社会運動に長年とり組んできた大西さん(仮名)が、現在、福島第一原発と第二原発の事故収束作業に従事している。 その大西さんから、昨年末から今年2月にかけて、お話を聞いた。 〔インタビューはいわき市内。掲載に当たって、特定を避けるための配慮をした。〕 お話が多岐にわたる中で、編集上、4つの章に整理した。 【Ⅰ】【Ⅱ】【Ⅲ】では、高線量を浴びる現場で、放射線管理員として作業に携わっている状況の報告。被ばく労働、雇用や就労、地域との関係などの実態が語られている。 【Ⅳ】では、原発労働者の立場から、反原発・脱原発の運動の現状にたいして、鋭角的な問題提起が行われている。 事故収束作業に従事する労働者へのインタビューや、ライター自身が中に入るという形で書かれたルポはある。しかし、原
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