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政治と稲葉振一郎に関するsakstyleのブックマーク (2)

  • 『政治の理論』――近代において共和主義を再考する/稲葉振一郎 - SYNODOS

    全体主義は否定すべき悪であるのか? 書『政治の理論』に至るまでの私の仕事を振り返ってみるならば、まず1999年の『リベラリズムの存在証明』というがあった。あののライトモチーフはひとつには”Taking Libertarianism seriously”であり、直観的には荒唐無稽だが、すっきりと明快であるがゆえになかなか決定的な論駁が難しく、思考実験としては大いに魅力的であるリバタリアニズム、最小国家論に対して普通のリベラリズムをどこまで防御できるか、という問題意識がそこにはあった。 今一つのモチーフとしては、経済学における「ケインズ経済学のミクロ的基礎付け」とのアナロジーで言えば「全体主義のミクロ的基礎付け」とでもいうべきものであり、合理的選択理論を根底に置いた考え方で、どこまでいわゆる全体主義というものを理解できるか、またそれに抵抗する方途としてはどのようなものが考えられるのか、と

    『政治の理論』――近代において共和主義を再考する/稲葉振一郎 - SYNODOS
    sakstyle
    sakstyle 2017/04/03
    『リベラリズムの存在証明』『「公共性」論』『不平等との戦い』『宇宙倫理学入門』と『政治の理論』を接続/リベラルな共和主義=無産者も資本者の資本主義→信用取引と人権(元物と果実、ストックとフローの違い)
  • 東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」 - shinichiroinaba's blog

    そもそも学問としての、そして近代人の基礎教養としての西洋政治思想史にはれっきとした「流」というものがあって、そこにはボダン、マキアヴェッリ、ホッブズ、ロックといった名前が大きく刻み込まれていて、中心的なテーマはまずはいわゆる「宗教改革」以降の「絶対主義」とともにやってきた「主権国家」であり、その主旋律に対する最も重要な変奏として「自然状態」による「契約説」が絡む。そしてそれら全体を支配する通奏低音は結局のところ「法」である。――このようなイメージがある。 それに対して、「人種」「民族」あるいは「階級」といった、何と言ったらよいのか、生身の人間たちの形成する社会的な集団の問題は、西洋政治思想史においてあくまで「傍流」としてのみ扱われてきたのではないか。また聞きであるが、生前の福田歓一は「政治思想史はヘーゲルで終わり、そのあとは現代政治学になる」との趣旨の発言をしていたそうで、実際彼の教科書

    東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」 - shinichiroinaba's blog
    sakstyle
    sakstyle 2009/11/13
    西洋政治思想の本流は「主権」「契約」「法」、「民族」「階級」「人種」は傍流/内政policeに対して家政oeconomey=人口を扱う。経済の語源。フーコーは統治をこの意味で使う。
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