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ブックマーク / www.momoti.com (7)

  • 交換の原理が僕たちを定義しようとしているとき、僕たちは情報を発信しながら、定義されることから逃げ続けなくてはならないだろう。 - ももち ど ぶろぐ

    交換の原理が僕たちを定義しようとしているとき、僕たちは情報を発信しながら、定義されることから逃げ続けなくてはならないだろう。 午前7時20分起床。浅草は雨。 「交換の原理が僕たちを定義しようとしているとき、僕たちは情報を発信しながら、定義されることから逃げ続けなくてはならないだろう」。 これは16日の午前中、空知建協に顔を出したときに、居合わせた皆さんとはなしたことだ。 交換の原理の支配力が強いとき、私たちの取れる戦略はふたつあるだろう。 ひとつはその大きな流れに身をまかせてしまうこと。 もうひとつは、その大きな流れに乗りながらさらに加速することで独自性を保つこと。 交換の原理の支配とは――つまりは私たちを労働力という商品として値踏みしようとする運動が支配的な状況である。 交換の原理を思い出していただきたい。 商品はモノである。つまり、そこにはそれをつくった人や前に所有していた人の人格や憾

    santaro_y
    santaro_y 2007/02/22
    「今淘汰されている中景は物言わぬ贈与共同体であることで――変化(進化)しない共同体であることで、資本の流れに飲み込まれてしまっただけ」
  • ももち ど ぶろぐ|なぜ私のブログでは、「(私は)思う」と私を()の中に入れてしまっているのか、ということ。

    2019年03月03日|お知らせ 2007年01月30日(火) Tweet なぜ私のブログでは、「(私は)思う」と私を()の中に入れてしまっているのか、ということ。 午前7時5分起床。浅草は晴れ。 これは、土曜日の勉強会のときに話したことだけれども、なぜ私はブログでは、「(私は)思う」と、「私」をわざわざ( )の中に入れてしまっているのか、ということいについて。 その理由はと言えば、ひどくくだらないもので、それは、そう思っている「私」が、当の「私」なのかどうか、「私」にはわからないのでね、とりあえず( )に入れて、それは保留にしてしまおうとしているのよ、という話をした。(笑) 「私は」というのはじつは「私」ではないのではないかと(私は)思っている。なにしろ一人称である「私は」と書いた途端に、「私は」何者にでもなれてしまう。 我輩はである? そのことに(たぶん)最初に気がついたのが夏目漱

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    santaro_y 2007/02/02
    「私のへその緒はインターネットにつながっている」
  • 機械アルモノハ必ず機事アリ。しかし欲望をあきらめてはならない。 - ももち ど ぶろぐ

    午前7時20分起床。浅草はくもり。 よりよい自分をつねに求めるという向上心は、実のところ高次の欲望であり、それを持続できるかどうかは自明ではない。 この昇華されたリビドーである高次の欲望のことをスティグレールは「象徴的なもの」と呼ぶのだが、それは育み、培わねばならないものなのだ。 ところがその教養のための時間を、目先の利益のみを追求する現代のハイパーインダストリアル社会は、構造的に破壊してしまう。 技術は発展していくのに、「私」や「われわれ」を向上させたいという動機付けの方が失われていくのである。 なぜなら、目下、感性や認知に関わる最先端の技術のほとんどは、すぐに結論を出そうと急ぐ意識の怠慢さを助長させ、人々の行動を画一化する方向で専ら使われているからである。 象徴の貧困、パトリの衰退、欲望の喪失 さて、上記のテクストは私のものではない。 これは、昨年の法大ECでも引用した、ベルナール・ス

    santaro_y
    santaro_y 2007/01/09
    パトリ
  • 考える技術のまとめ―法大EC’06第5回講座資料。 - ももち ど ぶろぐ

    santaro_y
    santaro_y 2007/01/02
  • 象徴の貧困。(ベルナール・スティグレール) - ももち ど ぶろぐ

    アーレントによれば、真に人間的であるのはアクションであり、コミュニケーションということになる。 ただコミュニケーションには、レイバーやワークに従属しているものもある。しかしそれは真のアクションではない。真に人間的なものは、レイバーやワークから切り離された、コミュニケーションの為のコミュニケーション(としてのアクション)である、とされる。 しかし、今私たちが直面しているのは、これとは全く違った事態だろう。 アーレントのいう「真に人間的なもの」であるアクションを、どこまでも純化してみたら、つまりコミュニケーションのためのコミュニケーションを、レイバーやワークとの関係から解放してしまったら、それは人間的じゃなく動物的なものになってしまった。 「象徴の貧困」とは、コミュニケーションをワーク――職人的な創造や芸術的な創造から切り離してしまったようなものではないのか。  (参考:東浩紀,大澤真幸:『自

  • (浅草寺の)子宮的構造。 - ももち ど ぶろぐ

    セクシャルなことのメタファーに満ちた暮らしが、日人にとってふつうのことだったのかもしれません。(三砂ちずる:『オニババ化する女たち』:p167) 図:ロラン・バルト:『表徴の帝国』:p53 浅草寺における子宮的構造について 人類の抱いた最初の哲学的謎は「子供はどこからやってくるのか」という質問なのであった。すると女性の股間の洞窟は「無」への入り口なのであるから、それを人目にさらして、子供はここからやってきましたと言うことは、「無」を裏切ってしまうことになる。(中沢新一:『アースダイバー 』:p195-196) 浅草寺のご尊である観音様は、ご開帳されたことのない絶対の秘仏であり 「無」である。地元の方々は見たら目が潰れると教えられているので当に誰も見たことがない――しかしこれが浅草の象徴である――。 それを私はありがたく日々拝んでいるわけなのだが、中沢新一は、そのこと(見えない観音様)

    santaro_y
    santaro_y 2007/01/02
  • 日本語の構造。(縦に書け!) - ももち ど ぶろぐ

    原初抑圧 人間を原初抑圧をするものにはまず、「ことば」がある。 原初抑圧とは鏡像段階にある子供が一人前になっていく過程であり、真っ白だったた左脳(言語脳)にことばが寄生する――ミームの寄生。 これによって人間には抑圧が加えられ、象徴界が構成され、社会性がもてるようになる。 日人――日語で考える人の場合、原初抑圧装置は「日語」である。 デコード 日語のをデコードすれば、単純にはこうなるだろう。 「漢字」「平仮名」「片仮名」は、それぞれに原理をもつ。 以下は、石川九楊の『縦に書け!』の第二章『「日」とは「日語」のことである』のまとめ的記述である。 漢字 漢字は中華帝国からの外来語である。 例:「漢委(倭)奴国王」。 中国(漢)から「倭」と呼ばれる地方があった。 その中に中国の柵封体制(中国が周辺の諸国に称号を与えることで従属させる体制)に組み込まれた「奴国」という小国があった。 日

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