ヒラギシスゲ(平岸菅, Carex augustinowiczii)、別名エゾアゼスゲ(蝦夷畦菅) ミズナラ(水楢, Japanese oak tree, Quercus crispula)
ヒラギシスゲ(平岸菅, Carex augustinowiczii)、別名エゾアゼスゲ(蝦夷畦菅) ミズナラ(水楢, Japanese oak tree, Quercus crispula)
おのずから変わっていく以上に世界をかえることはできない、という。いくたびこのことばをなぞったろう。おのずから変わっていく以上に世界をかえることはできないはずなのに、世界はしきりに自走し、しきりに暴走しつづけている。制止はもうできない。 辺見庸「おとしめあう世界」(室蘭民報2011年3月5日)から そうだろうか。おのずから変わっていくことによって世界をかえることができるかもしれないことこそが一縷の希望なのではないか。無責任な群れのなかで情報の隠蔽や錯綜を嘆いても始まらない。私は情報の隠蔽や錯綜からも有意な情報を読みとって自ら決断し行動に移さなければ、下手をすると無責任な体制のなかで無駄死にしかねない世界にいる。待ち人(未来)はいつまで待っても決して来ない。自ら迎えにいくしかない。辺見庸には己の他に守るべき大切なものはあるのだろうか?
横浜で実際にはじめて会った小野さんと話し込んだ中華街のお店でもらったライター。こういう小物がいい思い出の品になることが多い。このライターを見るたびに、小野さんのあったかい人柄、懐の深さを思い出す。とても謙虚な人だった。小野さんは「福満園」での会話をめぐる感想を謙虚すぎるモードでブログ上公開往復書簡のように綴ってくれもした。 宴のあとに 閉会後の25時ごろでしょうか、サンタの三上さんに付き合ってもらい、二人で1時間ほど中華街のお店で話をさせてもらいました。 青年の主張等も含め、どういった会だったのか、出来る限りを報告/伝えたいなと思う気持ちもありましたし、何より三上さんが何を考え、どう生きているのかを知りたいという思いがあったので。とても‘おこがましい’ですが。 で、教わったこと/わかったこと。これはあくまで僕なりにです。三上さん、間違ってたらごめんなさい。 三上さんという人は、「教育」とい
ジョナス・メカスの場合だけでなく、自分を含めて誰にとっても、生きることは失われた故郷への遠回りの旅、決してそこには辿り着けない旅だという思いに随分前から取り憑かれている。最近何本かの関心の線が交差したあたりに、済州島四・三事件、そして金石範の名が浮び上がり、いろいろと読みあさっているなかでも、金石範にとっての「故郷」の意味が知りたかった。そしてそれは彼にとっては生きる、生き延びることにほぼ等しいともいえる小説を書くことの動機にも深く関わってきたことを知った。結局、彼にとっての「故郷」は「人間」でいられる場所に外ならなかった。それを現実に奪った相手の本当の正体、自分の中にも深く食い込んでいる本当の正体を見極め、それを奪い返すための旅が、彼の生きること、すなわち書くことであった。 新編「在日」の思想 (講談社文芸文庫) 作者: 金石範出版社/メーカー: 講談社発売日: 2001/05メディア:
朝日新聞(夕刊)2010年8月27日 合法化された国家による組織的かつシステマティックな人殺しである死刑の刑場が肝心の〈現場〉を巧妙に回避した形で報道機関に公開された。薄気味悪さだけが残る記事だった。名を伏せられた法務省の担当幹部の指示によって、記者とカメラマンたちは肝心なものは何も見ないように、教誨質、前室、執行室、ボタン室、立会室を、まるで観光案内のように案内されたという。死刑囚の首にかけるロープも、死刑囚が立つ踏み板が開閉される様子もみせられなかった。そして執行室の階段の下にある、死刑囚が首をつられた状態で落下し、辺見庸によれば「吊り下げられた死刑囚が平均十四分くらい空中でダンスを踊るように痙攣する暗い部屋(「ダンサー・イン・ザ・ダーク」)」(『愛と痛み 死刑をめぐって』41頁)にも案内されなかった。その理由は「死刑囚が生命を断つ、きわめて厳粛な場で、死刑囚やその家族、刑務官などに与
2010年7月28日朝日新聞夕刊 朝日新聞の記事によれば、死刑制度に反対の考えを持ち、法相就任後も死刑執行に関して慎重な態度を見せていた千葉景子法相は、法務省幹部による度重なる説得によって死刑執行を決断したようだ。法務省内には昨年始まった裁判員制度に関するある危機感が強まっていたという。「市民が苦悩の末に決めた死刑が、法相の判断で滞っては、裁判員からの批判が噴出し、制度を根本から揺るがしかねない」。制度ありき、の本末転倒した意見にすぎないが、その背景には、確定死刑囚の増加と死刑容認派は85パーセントを超えたという今年二月に公表された内閣府の世論調査結果があったという。 記者に「変節」の理由を質された千葉法相は「職責に定められていることをさせていただいた」とだけ語ったという。苦汁の決断だったのだと推察する。というのも、千葉法相は現職法相として初めて死刑執行に立ち会ったことを公表したからである
私は二日間不思議な夢を見ていた。今年になって初めて見た夢だった。 2月10日、「私たち」は日本の国家安全保障にもかかわる重大な問題についてカジュアルに討議するために横浜に集結した。急遽某国から来日した国際的ビジネスマン、そして日本側からは情報技術者、出版関係者、通信関係者、アート関係者、そして哲学者(叱られるかもしれないが、これはなぜか私)というメンバーだった。 2001年の「黒船の来航」の脅威などをめぐり、一見些細な問題に思われるようなトピックから、かなり本格的な問題にいたるまで、討議は一部メンバーの途中退場があったものの、深夜まで、さらに二度寝した今朝の夢の中まで続いた。梅田望夫さんが再三述べている今インターネットを舞台に起こっていることは、情報技術の革命ならぬ「情報の革命」であるという洞察を受けるかのように、その「革命」がもたらす現実的諸問題について、各方面から忌憚のない意見、提言が
おっと、「雪だるま壁」が大幅に更新された。顔だけのものも入れると5つ。五人家族の親子の作か。雪壁アート(Art works on the snow wall)だなあ。 スウェーデンハウスの建設現場に雪だるまが。大工さんたち、ナイス。 境界旗(Boundary flags) ヤクルト配達自転車を残して「ヤクルトおねえさん」がどこかに姿を消していた。前方からきた車が自転車が邪魔で通り抜けられなかったので、私が自転車を少し移動させた。その瞬間、私は「ヤクルトおじさん」になった。荷台のボックスの中でヤクルトの瓶が揺れてかち合ういい音がした。 カエル、帰る おお、たんぽぽ公園のアジトの壁がさらに一段高くなった! 新しい雪だるまだ。誰だろう? 雪に還って往く 雪に還って往く
ドイツの映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog, 1942年生まれ)との出会いを綴った散文のなかで、ブルース・チャトウィンは二人が共有する<歩くこと(walking)>にまつわる信念あるいは哲学について次のように語っている。 そして(ヘルツォークは)歩くことの持つ神聖な面について、まともな会話のできる唯一の相手だった。私たちは二人とも、歩くということはただ単に健康維持につながるだけではなく、この世の邪悪を正すことのできる詩的な活動であると信じていた。彼は断言していた。「歩くことは美徳であり、観光旅行は大罪である」この哲学に従って、彼は真冬に歩いてロッテ・アイスナーに会いに行った。 「ヴェルナー・ヘルツォーク・イン・ガーナ」(1988年)より、『どうして僕はこんなところに』153頁 原文はこうである。 He was also the only person with w
人生は、一瞬一瞬が未知に抜ける途上にあり、そのような道を歩くことだと思う。 asin:4560042969 今やっていることはみんなとても新しいことだ、新しい人生の一部だ。 ヴェルナー・ヘルツォーク『氷上旅日記』11頁 どんな状況にあろうが、そう思えるかどうかだと思う。そうでしかないと思う。 asin:4047913243 ノマド(遊牧民)という単語は、牧草地の意味をもつギリシア語からきている。正統のノマドは移動する牧畜者で、家畜動物の所有者・飼育者である。流浪の狩人をノマディック(遊牧する人)と呼ぶのは、単語の意味を取り違えている。狩猟は動物を殺す技術であり、牧畜は動物を生かして役立てる技術である。狩人と遊牧民の心理的隔たりは、遊牧民と農耕者のそれと変わらない。 (中略) 遊牧民の「なわばり」は、季節ごとの牧草地を結ぶ道(path)である。テントに住む者たちは、定住者たちが自分の家や土地
三ちゃん(三上)とルーちゃん(Ludwig Wittgenstein)の架空の対話: 三ちゃん:ねえ、よく生きるってどういうこと? ルーちゃん:簡単でしょ。幸せに生きるってことでしょ。 三ちゃん:そんな簡単に言うけど、みんななかなか幸せに生きられないから、困ってるんじゃないの? ルーちゃん:三ちゃん、ちゃんと哲学してないなあ。考えても見てよ。幸せの反対は? 三ちゃん:不幸、不幸せ、でしょ? ルーちゃん:じゃあ、不幸の意識ってどうして生まれると思う? 三ちゃん:不幸の意識? 色んな理由があると思うけど、生きていることが無意味に思えるからかな。 ルーちゃん:そう。世界や人生に意味が見出せないと感じるとき、人は世界や人生が無意味、生きるに値しない、でも生きざるをない、という葛藤の中で、だんだん、世界はよそよそしく感じられるようになり、生きる意欲も、意志も失われて行くわけでしょ。でも、さあ。それっ
山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』(海鳥社、2006年) asin:4874155731 118頁〜119頁 山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』(海鳥社、2006年)は、ヤマで生まれ、ヤマで育ち、ヤマで働き、ヤマを撮り続けたヤマの写真家「イサオちゃん」こと山口勲さんの人柄や撮る写真に惚れ込んだ人たちの熱意によって出来上がった類い稀な素晴らしい写真集である。この写真集の編集に深く携わった上野朱さん(上野英信のご子息)によれば、写真集作りが具体化したきっかけは、2004年に川俣正さんが主宰した「コールマイン・プロジェクト」の一環として田川市の成道寺公園の一角で開催された「山口勲写真展」に遡る。そのとき川俣正さんとスタッフは保存用にと写真のスキャンまでしてくれたという(「編集を終えて」159頁)。そこから、本橋成一さん、上野朱さん、姜信子さん、塩谷利宗さんによる本格的な写真集作りが始まった。
水の世界には見えない境界があり、その境界域は汽水域と呼ばれ、海水と淡水が混じり合った汽水(Brackish water)という不思議な水、「幻の水」が存在する。そこでは浸透圧の激しい変化に適応したボラやヒメツバメウオのような汽水魚しか生き延びることはできない。稀におっちょこちょいの海水魚が海水から外に彷徨い出て、汽水域で死ぬことがあるという。自分のことみたいだと思った。 代表的な汽水魚、ヒメツバメウオ(姫燕魚, Silver moony, Monodactylus argenteus)*1 吉本隆明が「綺譚小説』と評した辺見庸の「赤い橋の下のぬるい水」と題した作品の中に汽水域で死にかけたイシダイが出てくる。 asin:4167564033 水面を魚が一匹横にかしいで泳いでいた。泳いでいるというよりも、湯に放たれたみたいに尾ひれをたたいて悶えているようだ。(中略)魚はときおり水面に完全に横倒
このエントリーをアップしようとしたら、またまた恐ろしいタイミングで、下川さん(id:Emmaus)からコメントが入りました(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090829/p1#c1251552305)。下川さん、本質的には応答にもなるのではないかと思うので、このエントリーを返事だと思って読んで下さると嬉しいです。下川さんのおっしゃる「考え抜くということ」の要は現実に対する「覚悟の深さ」だと思うからです。 *** 先日のタクオとの対話の中で、ブログに関して、さすがに鋭い所を突いてくるな、と感心したことがありました。町内のある知り合いの方を紹介する際に、苦し紛れに顔の部分だけボカした写真を載せたことがあるんです。まだまだ未熟な証拠です。未熟とは覚悟が浅いという意味です。それでは、「書きたいけど書けないことがある」と書くのと同じレベルじゃないか、と思い知らさ
下川さん(id:Emmaus)、コメント欄が次頁に隠れてしまったこともあって、最新のコメントをこちらに引用させていただきますね。悪しからず。 時間の取り扱いって大事です。 実は四月からずっと腰(椎間板ヘルニア)がよくなくてもっと悪くなって10歩も歩けなくて手術の一歩手前までいってたんだけど。でも最悪の状態を脱して。でいろいろ自分なりにやって分かったんだけど、日ごとの腰の状態を「点」としての流れに注視するより、週単位という「面」という流れで眺望していくと、痛みも痺れにも一喜一憂せずに気持ちが楽に落ち着いたということがあって。ボクらはずっと人間の起源以来の切れることのない現最新バージョンなわけで、そのバージョンアップが最良か最悪かわからないけど、共時的にも通時的も生物としてのプライマリーな調整能力があると思ったのでした。 http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/200
Mario Giacomelli: L'Evocazione Dell'Ombra/Evoking Shadow (Parole Di Charta) いいなあ、マリオ・ジャコメッリ、、 マサオ君本人は仕事の合間にブログを書いていると思っていますが、ブログの合間に仕事とやらをやっている、しかもその仕事とやらがどうも趣味としか思えない、結局すべて趣味に生きているようにしか見えないというのが家族の正直な印象です。ブログが俺のオフィスなんだ。そこに俺のすべてがあるんだ。どこに行っても、ネット環境がありさえすれば、ブログから仕事に必要な情報を引き出すことができるし、必要があって、その気にさえなれば、ブログから論文や本を書くこともできるんだ、と力説しても、家族には強弁、言い訳にしか聞こえません。家にいるときも、食事の時以外は、家族に背を向け、コンピュータという機械に向かっているとしか思えないからです
宮本常一は自分にとって父親は生きていくための「方向」を決めさせてしまった大きな存在であり、「もっとも尊敬する人物の一人」であると書いた(『民俗学の旅』27頁)。宮本が15歳で郷里を離れるときに父親から言い伝えられた「10か条の教え」はあまりにも有名である。 (1)汽車に乗ったら窓から外を歩く人をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかがよくわかる。 (2)村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上がってみよ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろす
KOSACこと奄美在住の写真家・濱田康作さんによる、白波たつ冬の奄美の海を眺めるル・クレジオ(Jean-Marie Gustave Le Clézio, 1940–)の後ろ姿(「すばる」2006年5月号の特集扉) ふと思い立って、ル・クレジオについて書いたエントリーを緩く束ねておくことにした。主題的に書いたもののほかに、折にふれて言及しているものが予想以上に多いことに我ながら驚いた。父の死後の私の人生の核心部にすーっと入ってきたのが、「白い皮膚をしたインディオ」としてのル・クレジオだったと言えるかもしれない。それにしても忘れている。自分が書いたとは思えないものもある。穴があったら入りたいくらい恥ずかしいものもある。でも、人生って、そんなもんだろう。というわけで、ル・クレジオ・アンソロジーです。 萱野茂(2006年07月23日) ブログという旅の行方(2006年09月20日) Let's m
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