山口真一 主幹研究員/准教授/博士(経済学) データ分析、情報経済論、社会情報学、ソーシャルメディア、ネット炎上、フェイクニュース、ネットメディア論
ミヤモトオレンジガーデンは愛媛県八幡浜市で、柑橘の栽培や加工品製造、スマート農業に取り組んでいる会社です。 「これからの新しい柑橘農業」を実現するため、栽培技術の研鑽と並行して、農業ドローン活用や栽培管理システムの構築にも力を入れており、新しい技術を織り交ぜた農業の効率化・見える化にも取り組んでいます。 本ファンドは、成長を続けるミヤモトオレンジガーデンが更なる事業規模拡大を目指し、自社工場兼本社施設の改装等にかかる費用を募集するものです。 ご出資いただいた方には、特典としてミヤモトオレンジガーデンの人気商品である「みかん寒天ゼリーセット」や、希少な品種である「媛小春(青果)」をご出資口数に応じてお送りいたします。 特典内容はご出資口数に応じて変わりますので、詳細は特典部分をご覧ください。
以前も書いたが、もう一度エクスタシー理論を考えてみよう。 現在の経済学は、人間の行動基盤を、効用関数においている。人間は、自分の効用を最大化するよう行動しており、その効用とは、様々な財の保有から得られるものである。 もう既にここで、単なるモノの大量消費社会を想定しているような感じであるが、そこはしたたかな経済学者達。この財とは、財(goods)と呼んでいるが、この財には何でも含まれる。サービスはもちろん、空気も公害も含まれている。公害のような外部性のあるものも含まれているから、他人が撒き散らす公害が広く様々な経済主体(構成単位は人間でなくてもよく組織でも企業でもよい)の効用に影響を与えることも考えられる。となると、ボランティア、利他精神も何でもオーケーだ。子孫の効用を入れてもいいし、愛する人の効用を入れても良い(それが私の大学の卒論だ:既にバブルに特化しており、愛のバブル現象の定義もしてい
●更新日 01/11● 派遣村のやつらを徹底的に尾行してみた 2回目 前号の通り10人中8人がギャンブルをやっていたので、新たに10人を尾行した。 最初に尾行した2人組が即、大森駅近くにあるパチンコ&スロット店「Symphony」に入る。 本当は顔にモザイクかけたくないが。 その店に探偵が次々に合流。意味はお分かりだろう。同じ時間帯に4人がスロットに興じたからだ。 新たにもらった2万円はどうなったか。 4人とも負けた。内訳は2000円~5000円。 別の入所者3人が歌舞伎町に向かった。そのうちの一人がロッカーに荷物を預けていたのでロッカー代2週間分の約4000円を使う。もったいない金の使い方だ。 ひとりの男が別行動し、残る2人は歌舞伎町のパチンコ&スロット店へ。そこで4000円と5000円使う。ひとりが少量の儲けを菓子とタバコに換える。3人揃ったところで歌舞伎町→大森駅からシャトルバスでな
全ての人に、食べ物を 食べきれずに食料を捨てる人がいる陰で、その日の食事にも事欠く人々がいる。ホームレスやDV(家庭内暴力)から逃れた被害者、移住労働者、そして困弱者しているお年寄りなど。Second Harvest Japanは、生活に困っている人々と彼らの支援団体を食を通じてサポートしている特定非営利活動法人(NPO)です。 飽食の国日本で、想像を絶する数の人々が飢えと無禄ではない毎日を送っている、という事実に少しでも心動かされるなら、私たちと一緒に、食の不均衡をいま一度考え直してみませんか。 名前が変わりました! 「Second Harvest Japan」とは、 旧「フード・ボート」の新しい名前です。組織もそこで働く人々も同じです。 名前だけが変わりました セカンド・ハーベスト・ジャパンの歴史 について続きを読む。 寄付 セカンド・ハーベスト・ジャパンのような非営利団体では、全ての
医療みたいな不確定要素を相手にする業界は、「模範的な医師」を想定してはいけないのだと思う。 症例検討会のこと 研修医が患者さんを受け持って、必然と、偶然と、病棟でいろんなことが重なって手術になる。 珍しい病気だったり、病理学的に「きれいな」症例であったりしたら、そうした経過は症例検討会で 発表される。 主治医は患者さんの症状や経過、何を考え、どんな検査を行ったのかを報告して、外科医は手術所見を述べ、 病理の先生がたは、取り出された病巣を顕微鏡で検討して、そこに集まったみんなで、貴重な経験を分かちあう。 症例検討会には、「きれいにされた」経過が供覧される。 どこの病院も、現場はたいてい、混乱に次ぐ混乱。患者さんが入院したところで、 実際にその人に会えたのは当日の夜中だったり、後から考えれば最初にやっておくべきだった検査は、 それに気がついたときには、もう患者さんは手術室だったり。 自分たちだ
タルコット・パーソンズの社会システム理論とルーマンの社会システム理論は、両者の間でその「システム」の概念は根本から異なっている。 パーソンズの社会システムは、大は世界システムから小は個人に至るまでの入れ子構造から成り立っているのに対して、ルーマンは多次元的・相互補完的・相互浸透的なシステムを考えており、システム間に階層性がない。 パーソンズはマックス・ウェーバーの系譜を引く方法論的個人主義を理論構成の根幹に据えているが、ルーマンは後期に至って「個人」を出発点に据える理論構成を明確に拒否している。 1963: (with Franz Becker): Verwaltungsfehler und Vertrauensschutz: Möglichkeiten gesetzlicher Regelung der Rücknehmbarkeit von Verwaltungsakten, Berl
池信先生⇒Twitter / 池田信夫: いまだに「プロ倫」を学生に勧める先生が多いみたいだけ ... いまだに「プロ倫」を学生に勧める先生が多いみたいだけど、あれはウェーバーの作り話 プロ倫は実証的に見ればゴミですよ。その点ではレヴィストロースがトンデモさんというのとあまり変わらない。 じゃなぜプロ倫かというと、人間行動における合目的性の概念にあって、それが理解社会学となるのだけど、この内面の「理解」を、いわゆる文学的な人間の内面ではなく、モデル的に、つまり理念型的に取り出したところがポイント。だからこの先にパーソンズの構造機能分析が出てくる。だからプロ倫が基礎とも言える。 ただ、これもちょっと特異な発想で、現代知性にとって重要かというとちょっと微妙かもしれない。 あと ⇒[書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー): 極東ブログ ⇒[書評]マックス・ヴェー
いまどきの学部学生をクソだと思う一つの理由 http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20090224/p1 だから「考える」というときに「模範解答」を条件反射的に連想して身構える態度は見ていてゾッとする。 そこには考えるプロセスと知的な冒険、あるいは失敗への忌避がある。 学校のテスト対策に特化した思考訓練が延々と12年もされてるから仕方ない。 大学受験で成功できるかどうかは、テストで点取れるかどうかが問題であって、 失敗は単純に忌避すべきであり模範解答があるならそれを覚えたり、 覚えられないなら模範解答により近い解答を考えられるようにする能力が必要であるわけで、 実際、その影響のせいなのか、自分も論文を書くときにかなり苦労している。 国語のテスト対策に特化しすぎて「採点基準に従って加点式で採点すると点数が確実に8割くらい取れる」 って文章しかかけなくなってしまってるよ
相場英雄(あいば・ひでお)氏のプロフィール 1967年新潟県生まれ。1989年時事通信社入社、経済速報メディアの編集に携わったあと、1995年から日銀金融記者クラブで外為、金利、デリバティブ問題などを担当。その後兜記者クラブで外資系金融機関、株式市況を担当。2005年、『デフォルト(債務不履行)』(角川文庫)で第2回ダイヤモンド経済小説大賞を受賞、作家デビュー。2006年末に同社退社、執筆活動に。著書に『株価操縦』(ダイヤモンド社)、『ファンクション7』(講談社)、『偽装通貨』(東京書籍)、『みちのく麺食い記者・宮沢賢一郎 奥会津三泣き 因習の殺意』(小学館文庫)、『みちのく麺食い記者・宮沢賢一郎 佐渡・酒田殺人航路』(双葉社)、漫画原作『フラグマン』(小学館ビッグコミックオリジナル増刊)連載中。 最近、政・財・官の要人を取り囲む大手メディア記者たちの間に、ある異変が起きているのをご存じだ
「ちきりんの“社会派”で行こう!」とは? はてなダイアリーの片隅でさまざまな話題をちょっと違った視点から扱う匿名ブロガー“ちきりん”さん。政治や経済から、社会、芸能まで鋭い分析眼で読み解く“ちきりんワールド”をご堪能ください。 ※本記事は、「Chikirinの日記」において、2007年6月30日に掲載されたエントリーを再構成したコラムです。 何かの行為や人を責める時、あなたは何を“起点”にして責めていますか? 実は人が何かを批判する時には、2つの異なる起点がありえます。起点となりうるのは、 (1)あるべき姿 (2)自分 の2つ。私たちは何かを責めるとき、無意識にどちらかを起点に選んでいます。 「それは、あってはならないことだ」というのは「(1)あるべき姿」と比較した批判で、「オレはそんなことは絶対しない」というのは「(2)自分」と比較した批判です。「自分=あるべき姿」という完璧な人なら、2
学校は、子どもたちに不平等を平等に分配する装置です。そして、このことは世界共通であり、どんなにがんばっても、変える事などできません。例え、どのような理念や目標を掲げようが、結果として子どもを評価格付けすることだけが、学校の機能です。 例えば、成績表を廃止しても、「学力格差」の解消には、何の関係もありません。また、莫大な予算を投入することで、全ての子供に英才教育を施し、オール5の評価を付けて社会に送り出したところで、社会の側が、子供たち全てを、1等賞として受け入れる準備などしていません。つまり、成績優等生・一流大卒者をいくら大量に排出しても、彼らの全てが平等に職を手にすることなど有り得ないからです。 これは、私たちの暮らす、現代社会が、結果の不平等を是認している為ですが、実現されることなく崩壊した共産主義社会であっても同様です。社会主義体制は、経済格差の解消を目指しましたが、「個」ではなく「
かつての櫻井よしこ女史のように「ストリートビューは国民を裸にするものだ!」と叫ぶイナゴが大量発生しているようだ。同じ話を繰り返したくないが、今後も同様の騒ぎが起こりそうなので、基本的なことだけ: まず海外まで紹介された樋口理氏の文化論はナンセンスである。私的な空間についての自衛意識は、欧米人のほうがずっと強い。日本の少年がハロウィーンで庭に入り込んで射殺された事件を覚えている人も多いだろう。「他人に自宅を撮られるのは気持ち悪い」というのは東洋も西洋もなく、現に欧米で訴訟が起こっている。 「地図データとリンクされるのがプライバシー侵害だ」という批判も、以前の騒動のとき、地図データベースについて出てきた話だ。おかげで田園調布などの住宅地図は、空白だらけで使い物にならない(個人情報保護法で世帯主の氏名は個人情報に含まれるので、これは助からない)。ストリートビューもopt outにしているよう
text 情報自由論 html version index 情報自由論ってなに? 「情報自由論 データの権力、暗号の倫理」(以下「情報自由論」)は、批評家・哲学者の東浩紀(僕)が、情報社会と自由の関係を主題として書き記し、『中央公論』2002年7月号から2003年10月号にかけて、14回にわけて発表した論考です。このサイトでは、そのすべての原稿が公開されています。 「情報自由論」の構想は、遠く、1990年代後半に『InterCommunication』で連載されていた論考、「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」(未刊)に遡ります。2000年代はじめの僕は、第1章でポストモダンの理論的な問題を扱い、第2章でその情報社会における展開を扱い、第3章でそのサブカルチャーにおける展開を扱う大部の著作を夢見ていたことがありました。『動物化するポストモダン』はその第3章が、「情報自由論」は第2章が変形
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