東京市本郷区湯島新花町(現・東京都文京区湯島2丁目)に生まれる。1945年6月、空襲を避けて神奈川県足柄下郡酒匂町(現・小田原市)に疎開。酒匂小学校を経て、1949年7月に東京へ戻り、文京区立汐見小学校に転校。父が旭光学の社長の運転手になったため、同校6年の夏休みに東京都板橋区志村前野町の旭光学寮に転居。京華中学校を経て、1959年7月に同高等学校を卒業。同校では漢文を千田九一に、古文を竹盛天雄に、現代文学を古林尚・紅野敏郎に学ぶ。 7月卒業となったのは、高校の卒業試験を受けている時、カンニングの発覚を恐れて教師の前で答案を破り卒業保留処分を受けたためである[2]。もともと卓球推薦で日本大学に進むことが内定していたが、これにより推薦取消となり、1960年、古林尚の勧めで早稲田大学の第一文学部と第二文学部のそれぞれ露文科をロシア語で受験、後者に合格。二文露文科在学中、ブントの一員として60年