こんにちは、Ashです。普段フルリモートワークで働いています。 ずっと家にいるわけではなく、日中はコワーキングスペースやカフェで作業することが多いです。 移動時にPC(MacbookPro)を持ち運ぶ ...
『死霊』(埴谷雄高) レビュー 2014年2月 文・高松徳雄 浪人時代に読んだ『罪と罰』、その衝撃はほとんど夢の中の出来事だったかのようにどこか心の奥にしまい込まれてしまい、私は大学に入ると小説とはほとんど縁を切り、哲学書やその解説書・研究書を読む日々が続きました。しかし大学二年の時、日本の小説家埴谷雄高の『死霊』とばったり出会うのでした。デカルトについての授業に出ていたのですが、なぜか教授の話が極端に脱線し、学生運動や政治思想の話になり、そこに突如埴谷雄高が現れたのです。 言われるままにその代表作『死霊』を読んでみると、冒頭「自序」でドストエフスキーについて書かれていて、正確には『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のくだりについてなのですが、彼がどれだけ影響を受けたかということが、おそらく作者埴谷雄高自身も、ある意味告白するような形としてこの「自序」を書ききったのではないか、と思えるよう
ぼくが捻くれたのはこの一冊のせいだった。ぼくが存在学を考えるようになったのもこの一冊のせいだった。ひょっとして文章を遊びすぎるのも、深刻を余裕をもって遊べるようになったのも、困難なパーティをしたくなるのも、この一冊のせいだったろうか。 なぜそんなふうになったか、次の短すぎるほど決定的な一文を見れば、見当がつくだろう。「薔薇、屈辱、自同律――つづめて云えば、俺はこれだけ」。 現代思潮社の『不合理ゆえに吾信ず』は、正方形の黒函入りで、函にもクロス製の表紙にも「Credo,quia absidum.」としか刻印されていなかった。 ぼくはこのストイシズムに酔わされた。なにしろ当方は19歳か20歳の青春紅蓮の真っ只中なのだ。そこへ、このストイックな一冊。しかもぽつんと、「薔薇、屈辱、自同律――つづめて云えば、俺はこれだけ」なんて言われたら、おかしくなる。 もうひとつの決定的な短文は、「大宇宙を婚姻せ
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