ブックマーク / mag.japaaan.com (15)

  • エッジ効きすぎ!遊郭や娼館が舞台の映画をピンポイント上映「花街の女たち」 : Japaaan

    江戸時代の高位な花魁というのはファッションリーダーでありトレンドを生む立場であったと言われます。遊郭や花魁を扱った映画は昭和の時代から数多く作られてしました。 このほどそんな遊郭や娼館が舞台となった映画を特集上映する「花街の女たち」がテアトル新宿でスタートするそうです。11月8日(土)〜11月21日(金)まで、レイトショー(20:50~)にて上映されます。 上映スケジュールはこちら。 11月8日(土):『肉体の門』(1988年)五社英雄監督 11月9日(日):『肉体の門』(1964年)鈴木清順監督 11月10日(月):『赤線地帯』(1956年)溝口健二監督 11月11日(火):『幕末太陽傳』(1957年)川島雄三監督 11月12日(水):『吉原炎上』(1987年)五社英雄監督 11月13日(木):『濹東綺譚』(1992年)新藤兼人監督 11月14日(金):『陽暉楼』(1983年)五社英雄監

    エッジ効きすぎ!遊郭や娼館が舞台の映画をピンポイント上映「花街の女たち」 : Japaaan
  • 明治時代の花魁の姿 : Japaaan

    詳細は不明ですが、明治時代の花魁と思われます。 花魁よりも周りで囲む人たちの姿が当時の雰囲気がすごく出ているようでリアルな古写真です。

    明治時代の花魁の姿 : Japaaan
  • 江戸開発は上水工事の歴史。飲料水を確保するために、徳川家康が行ったこととは!? : Japaaan

    江戸へ入府した徳川家康(とくがわいえやす)が最も頭を悩ませた問題の一つが“飲料水の確保”でした。当時、海辺に隣接していた江戸の町の地下水は塩分が多く、とても人が飲む水として利用することができませんでした。 家康は江戸に入ると同時に江戸市中へ水を供給する神田上水の開削を命じました。神田上水は、井の頭池を水源としており、人口の水路を作ることによって、途中の善福寺池や妙正寺池などから流れている水流と合流させて、神田・日橋・京橋といった地域に給水させようとするものでした。 ところが、江戸の人口が増加すると、神田上水だけでは供給しきれなくなり、そこで玉川上水が建設されることになりました。約43キロメートルもの人口水路を堀り、多摩川の水を四谷大木戸まで引き入れさせたのです。 玉川上水は、単に江戸市中の飲料水として利用されただけではなく、周辺の農村の農業用水としても利用され、武蔵野の新田開発にも大きく

    江戸開発は上水工事の歴史。飲料水を確保するために、徳川家康が行ったこととは!? : Japaaan
  • �明治時代の写真家・玉村 康三郎による写真作品 – 日本文化と今をつなぐJapaaan

    明治時代の写真家・玉村 康三郎(たまむら こうざぶろう)は、玉村は、金丸源三(かなまる げんぞう)という写真家から写真技術をまなび、明治初期には独立し、写真館を開業していました。 紹介記事はこちら

  • 貴重で魅力的なものばかり!江戸時代の余韻を残す明治初期の古写真たちを一挙公開 : Japaaan

    江戸時代に撮影された写真は現存するものがとても少ないですが、文明開化の明治時代に入ると、西洋からの写真技術が日に多く伝わってきます。その影響もあり、明治初期から日人の写真家も徐々に増えていきました。 Japaaanでは以前に、日下部金兵衛という江戸時代末期から昭和初期にかけて活躍した写真家の作品を紹介しましたが、

    貴重で魅力的なものばかり!江戸時代の余韻を残す明治初期の古写真たちを一挙公開 : Japaaan
  • 武士の身分を剥奪、首級を晒され…明治時代、日本の法律整備を急いだ江藤新平の最期 : Japaaan

    激動の幕末維新を乗り越えて時は明治。西欧列強に肩を並べるべく近代化を推し進めていた日にとって、きちんとした?ルールの整備はすべての基となるものでした。 明治新政府で司法制度の整備を担当した元佐賀藩士・江藤新平(えとう しんぺい。天保5・1834年生~明治7・1874年没)はフランスの民法を採り入れるべく、その翻訳に取り組むのですが……。 「誤訳も亦妨げず、唯速訳せよ」 「文中にある『フランス』を『日』に置き換えるだけでもよいから、とにかくすぐに訳すのだ!」 新平はフランス民法の翻訳に際して巧遅よりも拙速を貴ぶ方針をとり、しばしばそう発破をかけたそうですが、現実にはそんな簡単にはいかないものです。 「そうはおっしゃいますが、日語とフランス語では微妙なニュアンスが違いますし、そのまま適用するのはトラブルの元になりかねません」 「そうです。日の根ルールとなる民法だからこそ、充分な時間

    武士の身分を剥奪、首級を晒され…明治時代、日本の法律整備を急いだ江藤新平の最期 : Japaaan
  • 刀を差すのは禁止!明治時代の「廃刀令」は効力を失わず、実は昭和時代まで続いていた : Japaaan

    武士と聞いたら何を連想しますか?と聞けば、大抵の方が 「Oh,Japanase SAMURAI!BUSHIDO!HARAKIRI!KATANA(刀)!」 などと答えるかはともかく、武士にとって、刀は切っても切れないアイデンティティと言えるでしょう。 しかし明治維新がなって武士の世が終わりを告げると、次第に刀を廃止する廃刀議論が起こり、やがて「廃刀令(はいとうれい)」が発せられます。 当初はアイデンティティを奪われることに反発も起こったものの、巨頭・西郷隆盛(さいごう たかもり)が西南戦争に斃れた明治10年(1877年)以降は武力改革を唱える者も次第に減り、政治闘争の武器は刀から言論(自由民権運動)へ移行していくのでした。 しかし、誰も刀を差さなくなっても廃刀令そのものは効力を失わず、昭和時代まで続いていたと言うのです。 そこで今回は、廃刀が議論されてから完全に廃止されるまでの歴史を紹介した

    刀を差すのは禁止!明治時代の「廃刀令」は効力を失わず、実は昭和時代まで続いていた : Japaaan
  • 7基の台場は今どこに?幕末、江戸防衛のために建設された海上要塞「品川台場」の過去と今 : Japaaan

    東京湾にぽつんと浮かぶ2つ島。もとは江戸幕府が黒船来航後に建設した7つの海上要塞(通称「品川台場」)で、現在はそのうちの2つが残っている。 急ピッチで建設が進められた台場だが、結局一度も砲台としての役目を果たすことなく、姿を消していった。 江戸を守るための海上要塞 品川台場とは 嘉永6年(1853)、マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の艦船四隻が浦賀沖に来航した。真っ黒く大きなその船には外輪が付き、煙突からはもくもくと煙が上がっていた。

    7基の台場は今どこに?幕末、江戸防衛のために建設された海上要塞「品川台場」の過去と今 : Japaaan
  • そう言えばペリー提督って「黒船」の後どうなった?幕末の素朴な疑問を紹介 : Japaaan

    泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四盃で 夜も寝られず これは幕末の嘉永6年(1853年)7月8日、日の開国を求めて浦賀(現:神奈川県横須賀市)沖にやってきたペリー提督ら東インド艦隊の衝撃を詠んだ狂歌です。 上喜撰(じょうきせん)とは上等なお茶で、四盃(しはい)も飲んだらカフェインが濃すぎて眠れなくなってしまう様子を、たった四杯(しはい。杯は船を数える単位)の蒸気船(黒船)が来ただけで、世が騒然としている(夜が眠れない)様子にかけています。 このままでは日が滅ぶ!……いわゆる「黒船来航」が多くの志士たちを覚醒させ、日を生まれ変わらせる明治維新の原動力となったことは論を俟(ま)ちませんが、そのキッカケとなったペリー人はその後どうなったのでしょうか。 ペリーを知らない日人は少ないけれど、彼が日を去って以降のことは、意外と知られていません。 そこで今回は、近世日を揺るがすインパク

    そう言えばペリー提督って「黒船」の後どうなった?幕末の素朴な疑問を紹介 : Japaaan
  • 処刑メンバーを「くじ引き」で決定。幕末に起きた凄惨を極めた切腹劇「堺事件」 : Japaaan

    幕末期の日には異国船が多く来航した。多くは軍艦であり、国内の港には諸外国の水兵の姿が溢れた。そんな中、諸藩の志士や外国船乗組員との間では死傷者を出す事件も発生した。 今回は、外国人殺傷事件の中でも多くの犠牲者を出した「堺事件」をご紹介する。 事件のあらまし 1868年。和泉国(現在の大阪府)の堺港には、フランス海軍の木造艦「デュプレクス」が港内の測量を目的として停泊していた。 停泊中、デュプレクス内から士官や水兵約30名が境に上陸。市中を騒ぎながら闊歩した。近隣住民はフランス兵を恐れ藩に通報。境港の警備を担当していた土佐藩の小隊が現場に急行した。 藩士達はフランス兵に帰船を要求したが、彼らは応じなかった。捕縛を決行するも抵抗された事で発泡。一帯は銃撃戦となった。 土佐藩小隊はボートで逃げながら抵抗するフランス兵を一斉射撃。射殺または怪我を負わせた。結果的にフランス水兵は11名が死亡。すべ

    処刑メンバーを「くじ引き」で決定。幕末に起きた凄惨を極めた切腹劇「堺事件」 : Japaaan
  • 幕末、ペリー提督が率いる黒船来航の裏側。強姦、発砲、略奪…条約締結の裏で起きた真実 : Japaaan

    実は、ペリー艦隊は、浦賀に寄港する前に自慢の黒船を琉球王国(現在の沖縄県)に停泊させ、日に迫ったのと同じように琉球にも同様の条約を締結するように迫っていたのです。 飢えた乗組員たち 1853年5月26日(嘉永6年4月19日)、ペリー提督は浦賀に向かう前に薪水の補給を目的としてサスケハナ号を筆頭としたペリー艦隊を率いて那覇港に来航。琉球王府側の入城拒否を無視して6月6日に琉球王国に上陸しました。 各艦長以下随員30人、武装兵百三10人、大砲3門、楽手23人、その他合わせて総員210人が港から上陸し、琉球王国を震憾させました。乗組員全員が料や酒や女に飢えており、かなり好き放題の行動を始めたからです。 琉球での強姦事件 あまり知られてはいませんが、ウィリアム・ボード事件というのがあります。これは琉球でのペリー艦隊乗組員による最初の強姦事件です。1853年6月12日、黒船艦隊の中の輸送艦レキシ

    幕末、ペリー提督が率いる黒船来航の裏側。強姦、発砲、略奪…条約締結の裏で起きた真実 : Japaaan
  • 暗殺が横行した幕末「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【前編】 : Japaaan

    幕末は暗殺が横行した時代。特に有名だったのが、「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれる四人の暗殺者でした。 前半では、四大人斬りのうちの二人、「田中新兵衛」と「河上彦斎」の末路について紹介します。 なぜ暗殺は繰り返されたのか? 幕末は刀で時代を変えようとする志士達によって、暗殺が繰り返されました。桜田門外(さくらだもんがい)の変で大老の井伊直弼が暗殺され、水戸藩の名もなき志士達によって時代が動いたのをかわきりに、尊王攘夷の大義のもと天誅(天皇に代わって悪人を成敗する)と称して、要人がその刃の対象となりました。 自分達の中では、「暗殺で時代を変えるのが正義」と信じて疑わなかったのでしょう。 幕末の四大人斬り 1 田中新兵衛(たなかしんべえ) 元薩摩藩士の田中新兵衛が、まず暗殺したのが島田左近(正辰)。島田左近は、井伊直弼の右腕であった長野主膳に協力して、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧していました。

    暗殺が横行した幕末「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【前編】 : Japaaan
  • 古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った幕末の志士や戦国武将たち【前編】 : Japaaan

    京都を流れる鴨川に架かる三条大橋。この地域の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、罪人の処刑や晒し首の舞台となった。 今回は、日の長い歴史の中で三条河原に散った侍たちのエピソードをご紹介する。 三条河原が処刑場となった理由 三条河原が処刑場となった明確な理由はわかっていない。江戸期以前の日では、罪人の処刑の際に全貌を広く公開することが一般的であり、古来から人々の往来が盛んであった三条河原周辺は罪人の見せしめに都合がよかったと考えられている。 また、室町時代の三条河原は遺体置き場としても利用されていたといわれ、そこから処刑場としても利用されるようになった可能性もある。 三条河原で処刑・晒し首となった代表的な人物 石川五右衛門 戦国時代に実在したといわれる盗賊。長らく実在が不明とされていたが、日に滞在していた異国貿易商の資料に、石川五右衛門と三条河原における処刑の記述が確認された。

    古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った幕末の志士や戦国武将たち【前編】 : Japaaan
  • 無理ゲーだろこれwww 江戸時代の影絵の指南書「於都里伎」がアクロバティックすぎる : Japaaan

    小さい頃、影絵で遊んだ経験はありますか?指や紙、時には体を使って、後ろから光を当てスクリーンに様々な形を投影する遊びで、日ではこの遊びは江戸時代でも楽しまれていました。 そんな影絵を指南する江戸時代の書物「於都里伎(おつりき)」を紹介します。ただこの指南書、真剣に読み進めてはいけません。指南書と言っても真面目に影絵の方法を教えているわけではなく、完全な戯作。滑稽の体なのです。 実際に内容を見ていただくと感じていただけると思いますが、そのおふざけっぷりの突き抜け感といったらありません。 無理ゲーだろこれwww 「於都里伎(おつりき)」の作者、実は十返舎一九(じっぺんしゃいっく)なんです。十返舎一九といったら江戸時代のベストセラー「東海道中膝栗毛」の作者として知られている大人気作家。画は喜多川月麿(きたがわ つきまる)という江戸時代の浮世絵師が担当しています。 於都里伎には19個の影絵のや

    無理ゲーだろこれwww 江戸時代の影絵の指南書「於都里伎」がアクロバティックすぎる : Japaaan
  • なんとAppleが無料配信!江戸時代の絵師・耳鳥斎の作品どれもが可愛くってユルすぎてたまんないっ : Japaaan

    「耳鳥斎」。なんて読むかわかりますか?「にちょうさい(又は じちょうさい)」と読みます。 ではこれは何? 人物です。江戸時代に活躍した絵師の名前です。 耳鳥斎というネーミングはとってもユニークですが、ユニークなのはネーミングだけではありません。耳鳥斎の残した作品もまたユニークなんです。今回は耳鳥斎の作品をご紹介。 耳鳥斎は大阪で活躍していた絵師で狩野派の絵師に師事していたそうですが、彼の作品を見て狩野派の片鱗を見つけられる人はいるのでしょうか?というほど、流派など関係なく独特でユーモアな作品の数々。 耳鳥斎は主に面白く笑える「戯画」を制作していた人物で、作品のタッチが江戸時代の頃のものというよりも現代的なスケッチ画やイラスト、あるいは漫画のようなテイストで溢れているんです。 まずは耳鳥斎の作品の中でもとりわけユルさに溢れた作品集「絵水や空(安永9年・1780年 )」の一部をご紹介します。

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