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ブックマーク / fox-moon.hatenablog.com (406)

  • 福澤諭吉の戦争協力 ―『日本臣民の覚悟』― - 書痴の廻廊

    引き続き、『学府と学風』に関して記す。 前回は書き込みばかりで少しも内容に触れられなかった。 今回はここを補ってみたい。 書の中で小泉は、よく日清戦争の当時に於いて福澤諭吉が如何な態度を示したかを引き合いに出す。現在進行形で支那を相手に戦火を交えている都合上、それは自然な流れであろう。 ――この難局に、慶應義塾の門下生はどんな姿勢で臨めばよいのか? 迷った際は源流(みなもと)に還れ。創始者の中に方針を見出そうとしたわけだ。 そうなると真っ先に目にとまるのが、『日臣民の覚悟』である。 (Wikipediaより、小泉信三) 日清戦争開戦直後、福澤諭吉は時事新報の紙面を通して今次戦争の意義を明らかにし、同時に「日人が覚悟すべき三つのこと」を世上に説いた。すなわち、 第一、官民共に政治上の恩讐を忘るゝ事 第二、日臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を非難すべからざる事 第三、人民相互に

    福澤諭吉の戦争協力 ―『日本臣民の覚悟』― - 書痴の廻廊
  • 慶應義塾出征軍人慰安会ヨリ ―八十島信之助の署名― - 書痴の廻廊

    前の持ち主が意外な有名人だった。 昭和十四年発行、小泉信三著『学府と学風』のことである。 だいたい昭和十二年から十四年までの期間に於いて、小泉が行った講演・演説・祝辞の類を纏めた書。その奥付に、以下の書き込みを発見したのだ。 昭和十四年十一月三十日・泰安 慶應義塾出征軍人慰安会ヨリ 八十島信之助 この八十島信之助という名前、調べてみれば確かに慶應義塾の出身で、昭和十三年医学部卒、陸軍軍医として大陸に渡り、ノモンハン事件等に従軍したとなっている。 復員後は法医学者の道を歩み、数多くの司法解剖に携わる。なにかと陰謀論のささやかれがちな下山事件の検視を行い、「他殺の疑いなし」と判断したのもこの八十島だ。 のち、札幌医科大学名誉教授、勲三等旭日中綬章受勲。―― ノモンハン事件が戦われたのは昭和十四年五月から九月の間。 泰安は支那山東省西部に位置する街であり、支那事変を契機とし、昭和十二年十二月三

    慶應義塾出征軍人慰安会ヨリ ―八十島信之助の署名― - 書痴の廻廊
  • ベルの燈台 - 書痴の廻廊

    フランス北西、ブルターニュ地方はキプロン半島の沖合に、ベル=イル=アン=メールという島がある。 優美な島だ。 名前からしてもう既に、その要素が含まれている。フランス語でベル(Belle)は「美しい」を、イル(Île)は「島」をそれぞれ意味するものらしい。 (Wikipediaより、ベル島、カストゥールの浜) 島には複数の燈台がある。 土との主な連絡手段が船頼りである以上、それは必須施設であろう。 さて、その複数ある燈台のうち、東端に置かれたケルドニス燈台にて。 1911年4月11日、ひとりの男が死亡した。 彼はここの燈台守たるマテロット一家の亭主であって、その死は夏の夕立ほどにだしぬけな、不意打ち以外のなにものでもなかったという。 (Wikipediaより、ケルドニス燈台) 燈台内の清掃作業に当たっていたマテロット氏は、にわかに胸奥に不快を覚えた。咳ばらいをしても背筋を弓なりに伸ばしても

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  • アメリカ三題 ―楚人冠の新聞記事から― - 書痴の廻廊

    思わず声を立てて笑った。 楚人冠全集第十四巻、『新聞記事回顧』を読み進めていたときである。 頁を捲った私の眼に、このような記事が飛び込んで来たのだ。 嘗てパリの労働者間に酒類に代へて石油飲用の流行したることあり。又露国が戦時禁酒を行へる当時、酒に窮してオーデコロン、オーデキニンを飲用したるものありと聞く。 大正八年三月二十五日の社説に書かれた文らしい。 大正八年といえば西暦にして1919年、およそ101年前である。 なんとこんな昔から、ロシア人のアル中ぶりが知れ渡っておったとは――。 つい先日もロシアでは、酔いを得ようと手指消毒液を呑み干して、七人が死亡したばかりである。 2016年には入浴剤を喉の奥に流し込み、百人超が中毒症状、七十八人が死亡した。 旧ソ連時代、車輌用の不凍液を蒸留してウォッカ代わりに酌み交わしたという心温まるエピソードも見逃すわけにはいかないだろう。 まこと、彼らは筋金

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  • 1925年のダマスカス ―フランス軍、暴徒に対して爆弾投下― - 書痴の廻廊

    1925年、シリア、ダマスカスの市街に於いて。 フランス軍は暴徒鎮圧に爆発物を投入し、ナポレオン・ボナパルトの勇壮な精神の輝きが遺憾なく受け継がれていることを内外に示した。 (長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』13巻より) 順を追って説明しよう。 すべての元凶はイギリスである。 この年の四月一日、エルサレムに築かれたヘブライ大学の開校式に出席するため、アーサー・ジェームズ・バルフォア卿がパレスチナに乗り込んだことが始まりだった。 そう、アーサー・ジェームズ・バルフォア。 第一次世界大戦当時外務大臣の席に在り、例の三枚舌外交を発揮して、中東に百年経っても解決されない大混乱を惹き起こした張人といっていい。 アラブ人――特にパレスチナ在住のアラブ人にしてみれば、どんなに呪っても呪いきれない相手であろう。 そんな男がよりにもよって、怨嗟渦巻くエルサレムに、イギリスの肝煎りで設立された、ユダヤ人

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  • トルコアヘンは大人気 ―イスタンブールの日本人― - 書痴の廻廊

    「ウチのアヘンはもの(・・)が違う。紛れもなく、世界最高品質だ。一度でもその味を知ってしまえば、二度と再び他国製では満足できなくなるだろう――」 そのトルコ人の自慢話がまんざら誇張でもないことを、大阪朝日の特派員・高橋増太郎は知っていた。 彼が派遣されたこの当時、トルコ共和国は国際連盟に未加入な立場を最大限活用し、アヘンの輸出に極めて積極的な状態にある。1927年だけでも三十五万七千六百キログラムを生産し、その輸出額は千四十四万リラに上ったというから大したものだ。 建国間もないトルコにとって、これほど好都合な「特産品」もなかったろう。 彼らはまた、自分たちの商品が如何に高品質を保っているかを科学的に立証しようとこころみた。各国のアヘンを分析し、そのモルヒネ含有率を調査して、白昼堂々公然と、スミルナ商業会議所の名の下に発表したのだ。 (スミルナの街。現在では「イズミル」の名で呼ばれる) それ

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  • 英雄的独裁者 ―特派員の見たトルコ― - 書痴の廻廊

    1927年10月28日、トルコは死の如き静寂に包まれた。 政府がその威権を発動させて、全国一斉に外出禁止を布(し)いたのだ。 目的は、戸口調査こそにある。 オスマントルコ時代に行われていたような不徹底さを全然廃し、今度こそ完全に己が姿を直視せんと、当局者たちはよほどの覚悟で臨んだらしい。そのことは、医者や消防隊といった急を要する職種の者まで例外とせず、所帯表の取り纏めが終わるまで、断固として戸外に出るを禁じたという一事からでもよくわかる。 よほど強力な中央集権が前提になくば、とてもやれない措置だろう。 幸いこの時期のトルコにはムスタファ・ケマル・パシャという英雄的独裁者が君臨しており、この試みは成功裡に終始した。 (Wikipediaより、ムスタファ・ケマル) 弾き出されたトルコの人口、千三百六十六万二百七十五名なり。 そのうち農業に従事する者、九百十四万五千人に上るというから、当時のトル

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  • 山吹色の幻夢譚 ―昭和七年のゴールドラッシュ― - 書痴の廻廊

    昭和七年はゴールドラッシュの年と言われた。 水底(みなそこ)に沈んだ宝船、山奥に秘められし埋蔵金、海賊どもが無人島にたっぷり集めた略奪品――。 未だ見ぬ幻の黄金を求めて。遥かな時の砂の中から我こそそれを掘り出さん、と。日全国津々浦々、誰も彼もが寄ると触るとその話題で持ちきりで、度を失った狂奔ぶりは、恰も熱病の集団感染の観すらあった。 必然として、この状況を利用しようと企む連中が出現(あらわ)れる。 金貨やプラチナを満載したまま日海海戦の砲火に沈んだナヒーモフ号引揚會を皮切りに、 リューリック号、スワロフ号、アンナ・ローザンヌ号、神力丸の金塊引揚げ、 小栗上野介が赤城山麓に隠したという金塊探し、 猪苗代湖に沈められた葦名勢の大判小判、 果ては新興宗教「明道會」のお告げに基くロマノフ王朝の遺産探しに至るまで。 まったく「雨後の筍の如く」としか表現の仕様が見当たらぬほど多種多様なプロジェクト

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  • 南の島のレッド・パージ ―緑の魔境の収容所― - 書痴の廻廊

    ある日、牛が盗まれた。 ジャワ島東部、日人和田民治が経営するニャミル椰子園に於いてである。 これが日内地なら、迷わず警察に通報する一択だろう。一時間もせぬうちに附近の交番から巡査が駈けつけ、同情の意を表しながら現場検証に取り掛かってくれるはず。その程度の機能及び構造は、当時に於いて既に確立されていた。 が、ここはオランダの植民地、南洋遥かなジャワである。 この地を統治するオランダ人は、牛泥棒程度でいちいち真面目に動かない。理由は彼らの怠慢というより、政府の方針からしてそうなのだ。原住民同士の面倒は原住民同士でカタをつけろと言わんばかりに、村長に巨大な権限を投げつけ、事の処理を一任していた。 村長は警察権を具有し、部下の区長や区長の下に働く村役人を使って犯人の捜査、検挙、逮捕、監禁をすることができる。 村長には任期がなく、また、村会といったやうな機関もない。従って、一度選挙されると、所謂

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  • 切腹したがる子供たち ―志村源太郎・岡本一平― - 書痴の廻廊

    志村源太郎という男がいた。 山梨県南都留郡西桂村の産というから、神戸挙一の生まれ故郷たる東桂村とはごく近い。 ほとんど袖が触れ合うような隣村関係といってよく、志村が日勧業銀行総裁に、神戸が東京電燈社長の椅子に就いて以降は、互いに意識し合うところが大きかったに違いない。 この両人は、年齢までもがほど近かった。 1862年生まれの神戸に対し、1867年生まれの志村。共に御一新以前の年号であり、甲斐絹の取り引きでさんざ儲けた家系の裔である点も、いよいよ似ている。 その財産が父の代にてきれいさっぱり雲散霧消したところまで神戸と志村は共通しており、ここまでくると瓜二つとしか言いようがない。天の作為を、ふと疑いたくなるほどだ。 (Wikipediaより、志村源太郎) さて、そんな志村源太郎だが。 実を言うとこの男、小学生の時分に自殺未遂を起こしている。 原因は、父との確執だったらしい。 父の宇平は昔

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  • 盲人による美術鑑賞 ―寺崎広業、環翠楼にて按摩を試す― - 書痴の廻廊

    箱根塔ノ沢温泉に環翠楼なる宿がある。 創業はざっと四世紀前、西暦1614年にまで遡り得るというのだから、よほどの老舗に違いない。 「水戸の黄門」こと徳川光圀をはじめとし、多くの著名人がその屋根の下で時を過ごした。 秋田県出身の日画家、寺崎広業もそのうちの一人に数え入れていいだろう。 (Wikipediaより、寺崎広業) 「放浪の画家」と呼ばれた彼は、しかし箱根に立ち寄る場合いつも決まって環翠楼に投宿し、ほとんど例外というものがなかった。 「絵筆を執り、丹青のわざをふるうのに、これほど適した場所はない」 と、太鼓判を押していた形跡がある。 肩が凝ると、按摩を呼んだ。 その按摩にも贔屓の揉み手が一人いて、名前を時の市という。この盲人の丁寧な施術に寺崎はすっかり惚れ込んでおり、彼の指にかかるや否や筋繊維の隙間に溜まった疲労分子がほろほろと、泡の如く揉みほぐされゆく実感に、つい声を上げたくなるほ

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  • 天穂のサクナヒメ ―青木信一農学博士をかたわらに― - 書痴の廻廊

    『天穂(てんすい)のサクナヒメ』を購入した。 『朧村正』を夢中になってプレイした過去を持つ私にとって、決して見逃せぬタイトルである。和を基調とした世界観といい、横スクロールアクション的な戦闘といい、かの名作を彷彿とさせる要素がてんこ盛りであったのだ。 良き米を作ることが主人公の強化に繋がるという、あまりに独特な成長システムにも惹きつけられるところ大だった。そう、きっと日人にはこの穀物を、一種神聖な存在として崇めたがる向きがある。今は遥かな上古の昔、稲作を以って王化の証となさしめた大和朝廷にその淵源を見出せるであろうこの偏りは、むろん私の中にもあって、そこを大いに刺激された格好である。 ところがここに問題が一つ。 白状すると、私はあまり米作りに詳しくない。 素人そのものといっていい。山梨県人は半世紀前、水田の大部分を埋め立てて、以ってミヤイリガイの棲息地を物理的に消滅せしめ、風土病を克服し

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  • 続・植民地時代のジャワの習俗 ―道路・散髪・美容術― - 書痴の廻廊

    お国柄というものは、植民政策の上に於いても如実に反映されるらしい。 たとえばオランダ人は道路を愛する。 左様、その重視の度合いは最早偏愛としか看做しようのないものであり、このためたとえば和田民治が根を下ろしたジャワ島などは、網目の如く車道が四通八達し、ほとんど汽車を圧倒する勢だったという。 主要幹線は悉くアスファルトで舗装され、道幅も至って広々として、極めて近代的なつくりであった。この豪華さは、当時のインドネシアの活発な産油事情と無関係では有り得ない。原料ならば、いくらでも手に入ったというわけだ。 街路樹としては、ネムノキが専ら活用された。この落葉高木が大きく腕を広げたその下を、エンジン音も高らかに、車で走り抜けでもすれば、たちどころに「夢の国をドライブするやうな」いい気分に浸れたそうだ。 彼らはまったく道路に金をかけることを惜しまなかった。 開墾に於いてもそうである。オランダ人は何より先

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  • 植民地時代のジャワの習俗 ―出産・育児篇― - 書痴の廻廊

    和田民治という男がいた。 明治十九年生まれというから、ちょうどノルマントン号事件が勃発した年である。 三十路を越えてほどもなく、蘭印――オランダ領東インドに渡った。 以後、およそ二十年もの長きに亘り、彼の地で開墾・農園経営に携わり続けた人物である。 (和田民治氏) 千古斧鉞を加えざる原生林を切り拓き、東ジャワ州ブリタール市南方に彼が築いた農園は、名をニャミル椰子園と称し、その外郭を概説すると、 2100ヘクタールの面積――東京ドーム450個分に相当――を有し、 2000人近くのジャワ人を労働者として定住せしめ、 600頭の牛を耕耘用に飼育しており、 主要作物は椰子とカポック綿であり、前者だけでもその樹の数は、ゆうに十万を超える等、 どこから見ても堂々たる大農場の構えであった。 そんな彼の筆(て)によるが、ありきたりな旅行記と一線を画す仕上がりなのは全く以って当然だろう。昭和十六年発行、

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  • 続・文明堂と帝国海軍 ―軍縮をきっかけとして東京へ― - 書痴の廻廊

    宮崎甚左衛門が人に使われる立場から、人を使う立場に移行したのは、大正五年十月二十五日のことである。 この日、彼は佐世保の街に文明堂の支店を開いた。 一国一城の主になったのである。男としての懐であろう。それはいい。ここで疑問とするべきは、 ――何故、佐世保を選んだか。 ということだ。 実のところこの判断の背後にも、海軍が大きく関係している。 (Wikipediaより、佐世保湾) 半年前のことだった。春爛漫たる佐世保の港に連合艦隊が入港すると小耳に挟んだ甚左衛門は、すわ商機ぞと一念発起、担げるだけの品を担ぎ、現地に向かって急行したのだ。 むろん、紹介も何もあったものではない。 ただもうひたすら当たって砕けろ討ち死に上等の精神で、サンパンと呼ばれるはしけ(・・・)を操り、碇泊中の軍艦に片っ端から乗りつけるのである。その動きを上空から俯瞰すれば、まるでこまねずみのように忙しなかったことだろう。

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  • 文明堂と帝国海軍 ―長官室にフリーパスのカステラ屋― - 書痴の廻廊

    地下鉄三越前駅から文明堂東京日店に行く場合、A5出口を使うのが、経験上いちばん手っ取り早く思われる。 ここを出たら、後は右手側に直進するだけでいいのだ。 二分もせずにこの看板が発見できることだろう。 先日カステラを買った際には、おまけとして「黄金三笠山」がついてきた。 この「おまけ」の伝統を作ったのも宮崎甚左衛門その人で、如何にも彼らしい哲学性が底にある。 『まける』ということは、お客さまにとってはこの上ない魅力である。商人が負けるのであるから、お客さまは勝つのである。勝って気持のよくない人はいない。ところが、百円の値段を八十円にまけて、二十円が財布に残ったというのでは、まだ魅力の度が薄い。また、あとあとまで尾を引く生命が短かく、展開力も少ない。その点、品物によるおまけは、はるかに効力が大きいのである。婦人雑誌や少年雑誌につく附録が、どんなに購買欲をそそっているかが端的な好例だが、カ

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  • 「今に見てろ」という言葉 ―踏まれても根強く保て福寿草― - 書痴の廻廊

    宮崎甚左衛門の『商道五十年』を読んでいると、「今に見ていろ」等逆襲を誓う意味の言葉が散見されて面白い。 前回の記事からおおよそ察しがつく通り、この東京文明堂創業者は極めて律義な性格で、しかしながらそれゆえに、劫を経た古狐のように悪賢い世間師どもの手練手管にやり込められて、煮え湯を呑まされることが多かった。 甚左衛門は偽善者ではない。 そういう場合、しっかり憤りを催している。 情なさと、口惜しさで、腹の中は煮え返るようであった――あのおやじは、おれをひどい目に会わせているが、人を苦しめるお前さんが出世するか、苦しめられるおれが出世するか、今に見ていろ――と、私はひそかに歯噛みしたのであった。(79頁) こうして、表面だけは円満な手切れであったが、私の腹の虫はなかなかおさまらなかった。復讐などということではないが、今に見ていろ! ……といった気持はにえかえった。(114頁) 最終的にその感情は

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  • 焼け野原での墓参り ―宮崎甚左衛門の孝心― - 書痴の廻廊

    ――カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂。 「有名」などという言葉では、慎まし過ぎてとても現実に即さない。 あまりにも人口に膾炙されきったキャッチフレーズ。それを発想した男、東京文明堂創業者・宮崎甚左衛門。 現在私の知る限りの範囲に於いて、この男より孝心豊かな人物というのは存在しない。 日どころか全世界を見渡しても、彼が最上ではないかと思う。 なにしろ親の戒名を、常に懐に忍ばせていた人物だ。 順を追って説明しよう。――甚左衛門の財布には、紙片がいちまい、何時々々(いついつ)だとて収まっていた。 三つ折りにされたそれを開くと、何よりもまず真っ先に、中心線にぴたりと合った「南無阿弥陀仏」の六文字が網膜に飛び込んで来るだろう。 雄渾なる筆致から、ふと視線を逸らしてみると今度はその両脇に、戒名がそれぞれ一人ぶんづつ配置されていることに気が付く筈だ。 言うまでもなく、それが甚左衛門の両親

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  • 夢路紀行抄 ―間違い電話― - 書痴の廻廊

    夢を見た。 埒のあかない夢である。 直前まで何をしていたかは憶えていない。鮮明なのは、携帯がけたたましく鳴り響いてからである。 着信を知らせる音色であった。 私は特に発信元の番号を確かめもせず、半ば反射でそれに出る。後から思えば迂闊としか言いようがない。悪徳業者のトラップだったら何とするのか。 果たしてスピーカーから聴こえて来たのは、 「――さん?」 しわがれて、変に間延びのした、知らぬ老婆の声だった。 むろん、私の苗字ではない。 (間違い電話か) 今の時代珍しいなと思いつつ、差し当たり穏当な対応を心がけることにする。 が、よほどお年を召されているのか。違います、どちら様ですか、と繰り返し答えてやっても一向に頓着する様子がない。通話の相手はただひたすらに、自分の用件のみを述べ立ててくる。 どこだかの予約が取れたから、十時半ごろに車廻して迎えに来てくれ――要約すればこんなところだ。 (俺にそ

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  • 酒、酒、酒、酒 ―このかけがえなき嗜好品― - 書痴の廻廊

    ドイツがまだワイマール共和国と呼ばれていたころの話だ。 第十二代首相ブリューニングの名の下に、ビール税の大幅引き上げが決定されるや、たちどころに国内は、千の鼎がいっぺんに沸騰したかの如き大騒擾に包まれた。 もともと不満が積している。 政治家としてのブリューニングは典型的な緊縮財政の信徒であって、世界恐慌の狂瀾怒濤をひとえに政府支出の削減と増税によって凌ごうとした。 彼の手によって引き上げられた関税たるや小麦・大麦・燕麦、澱粉・鶏卵・牛乳に、シャンパン・葡萄酒・コンデンスミルク等々と、農産物に限っても列挙するのが面倒になるほどである。 冷凍肉五万トンの無税輸入制度も廃止され、鮮肉の関税も五割増しの憂き目に遭った。 これだけでも料品の値上がりが予測されて憂なのに、更に営業税・百貨店税の増税までもが降り落ちてきたから堪らない。卓のみならず、日用品という日用品が一斉に騰貴するとあってはやり

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