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フィリップ・トルシエ 中村の検索結果1 - 6 件 / 6件

  • 日本サッカー界のレジェンド・中村俊輔の栄光と挫折の軌跡をまとめたムービーがガチ映画の予告編並みの感動クオリティ

    サッカー日本代表の背番号10として数々の功績を残してきた中村俊輔選手は、Jリーグだけでなく海外のプロサッカーリーグでも活躍した人物。イングランド・プレミアリーグの名門クラブであるアーセナルで活躍するキーラン・ティアニー選手は、自身が少年時代を過ごしたセルティックの英雄である中村俊輔選手について「ずっとナカムラを目指してきた!」と語っているように、現役サッカー選手の中にも同選手のファンは多く存在します。そんな中村俊輔選手の栄光と挫折の軌跡をまとめたムービーが公開されています。 映画『NAKAMURA~Celtic Legend~』予告編 - YouTube 「ワールドカップに出たいです」という言葉と共に映し出されたのは、ノートに書かれた「南アフリカワールドカップで強豪を次々と破り、ベスト4に入り世界を驚かせてみせる!」という力強い目標。 「もっと世界のトップレベルを体験したいですね」 場面は

      日本サッカー界のレジェンド・中村俊輔の栄光と挫折の軌跡をまとめたムービーがガチ映画の予告編並みの感動クオリティ
    • 空白の9カ月から始まった“中村俊輔のオシムジャパン”「一緒にW杯を戦いたかった」「オシムさんには未だに考えさせられている」(飯尾篤史)

      空白の9カ月「嫌われているのかな」 初めて日本代表に選出されたのは、プロ2年目となる1998年2月のオーストラリア合宿だった。フランスW杯本大会を前に、新戦力の発掘を目論む岡田武史監督から声がかかったのだ。 フィリップ・トルシエ監督時代に日本代表に定着し、続くジーコ監督からは10番を託され、2006年ドイツW杯に出場。自身2度目のW杯となった10年南アフリカ大会を最後に、青のユニフォームを脱いだ。 こうして日本代表の成長期を主軸として駆け抜けた俊輔には、一時的に代表メンバーから外れた時期がある。 空白の期間とも言うべき9カ月――。 ドイツW杯グループステージ最終戦のブラジル戦から、07年3月のペルーとの親善試合までの期間である。 俊輔だけではない。ドイツW杯終了後に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムはその間、欧州組を一切招集しなかった。 「なんで呼ばれないんだろうな、っていうことは考え

        空白の9カ月から始まった“中村俊輔のオシムジャパン”「一緒にW杯を戦いたかった」「オシムさんには未だに考えさせられている」(飯尾篤史)
      • 森保監督擁護というかこれからのサッカー日本代表監督について思うこと - sugarless time

        2020Jリーグが始まって、開幕戦で勝点2を取り損ねた我らが横浜Fマリノスについても書きたいところですが、今さら日本代表についてです(汗) 出典:JFA|公益財団法人日本サッカー協会 2022年ワールドカップアジア最終予選アウェイでのオマーン戦を辛勝してほとんどのメディアが首の皮が繋がったとする森保サッカー日本代表監督。 森保監督を擁護するつもりはないけれど、多くのメディアも識者もこぞって批判を繰り返すことに違和感がある。 年が明けてホームでの正念場サウジアラビア戦に勝利するも、オマーン戦前後よりは大人しくなったものの手の平を返すというところまでには至っていない。 ヤフコメなんぞは相変わらずの森保監督批判で溢れ、その多くは森保監督の戦術に関するもの、川崎フロンターレの「鬼木監督」に交代しろとか、元横浜Fマリノス、現在スコットランドのセルティックで指揮をとる「ポステコグルー」にしろとか匿名と

          森保監督擁護というかこれからのサッカー日本代表監督について思うこと - sugarless time
        • 久保竜彦の“破天荒さと凄み”を生かせなかった日本の現実 戦友たちの証言で振り返る

          「サッカー界の“宝石”久保」のストーリーだと聞くと現在誰もが久保建英をイメージするだろう。しかしこれから取り上げるのは2000年代を代表するストライカー“ドラゴン”久保竜彦である。 破天荒で豪快。圧巻のバネと得点力。「宝石」とさえ呼ばれた特異な才能は、プロとしてどのように評価され、どのように評価されなかったのか。 「単独で欧州や南米の守備陣を破壊しうる人材」。そんな彼を彷彿とさせる新たな日本を代表するストライカーの出現に期待しつつ、久保竜彦の“破天荒さ”と“凄み”を数々の証言を交えて振り返る。 (文=中野和也、写真=Getty Images) 「2002年? その時は地球が滅亡するらしいから」 久保竜彦を書くと決まった時、何から書き出すか、判断に迷った。彼のプレーの素晴らしさか、それとも破天荒な生活か。 ただ、もう久保竜彦の存在自体が歴史的なものでもある。なので、彼の名言の数々をまずはご紹

            久保竜彦の“破天荒さと凄み”を生かせなかった日本の現実 戦友たちの証言で振り返る
          • なぜか…日本代表で輝けなかった5人の名手(1)。最強ドリブラー! だけど…全くアピールできなかったのは?(フットボールチャンネル) - Yahoo!ニュース

            日本代表にはこれまで数多くの選手が名を連ねてきた。しかし、当然その中の全員が活躍できたわけではない。クラブで絶対的な存在になりながらも代表では…という選手も実に多い。今回は、選手層が厚すぎるがゆえに日本代表で活躍できなかった選手を紹介する。 MF:本山雅志 生年月日:1979年6月20日 日本代表成績:28試合0得点5アシスト 1999年に開催されたU-20世界選手権(ワールドユース)で、本山雅志は日本代表の一員として準優勝に貢献。小野伸二と共に大会ベストイレブンに選出された。また、高校卒業後に入団した鹿島アントラーズでは2002年に名手ビスマルクから10番を継承。最終的に18年在籍し歴代4位となる公式戦498試合に出場するなど、名実ともにクラブのレジェンドとなっている。 と、年代別代表や鹿島で確かな存在感を示してきた本山だったが、日本代表で輝きを放つことは残念ながらなかった。2000年に

              なぜか…日本代表で輝けなかった5人の名手(1)。最強ドリブラー! だけど…全くアピールできなかったのは?(フットボールチャンネル) - Yahoo!ニュース
            • トルシエが振り返る中村俊輔の一撃。「日本の運命を変えたゴールだった」(田村修一)

              フィリップ・トルシエの電話インタビューを敢行したのは3月12日、新型コロナウイルスによる被害がここまで深刻化する前のことだった。前日に電話をすると、飛行機での移動があるから翌日に掛け直してくれという。 事前にメールのやり取りで、「運命の1点」という今回のテーマは伝えていた。トルシエからの返答には2つのゴールが記されており、ひとつがU-21アルゼンチン戦(1998年11月23日)での中村俊輔のゴール、もうひとつが日韓ワールドカップ・チュニジア戦(2002年6月14日)での森島寛晃のゴールだった。 ひとつを選ぶなら、中村のゴールであるという。ならばそちらだけ話を聞けばいいかと思っていたら、トルシエの方から森島のゴールについても話し始めて……。2つのゴールは彼のなかで、《始まり》と《終わり》という象徴的な意味を持っていたのだった。 このインタビューはNumber1001号に掲載したが、紙幅の都合

                トルシエが振り返る中村俊輔の一撃。「日本の運命を変えたゴールだった」(田村修一)
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