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保元物語 作者の検索結果1 - 11 件 / 11件

  • 「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ」 皇嘉門院別当 難波江の一夜の恋に身を尽くし - 安心感の研究 by 暖淡堂

    百人一首第88番目の歌の作者は皇嘉門院別当こうかもんいんのべっとうです。 皇嘉門院聖子せいしに仕えた人でした。 今回は皇嘉門院別当について紹介します。 皇嘉門院別当とは 生没年は不詳。 藤原忠通の娘で崇徳天皇の皇后であった皇嘉門院聖子に支えていました。 保元の乱では崇徳天皇と藤原忠通が対立。 皇嘉門院聖子はその板挟みとなり苦悩したことでしょう。 乱の後に出家します。 皇嘉門院別当も、共に出家したと考えられています。 百人一首に選ばれている歌は、掛詞、縁語が多用されています。 「難波江の芦」は「かりね」の序詞。 「かりね」は「刈り根」ですが、「仮寝(仮初の共寝)」。 「ひとよ」は「一節」と「一夜」をかけています。 「みをつくし」は「澪標」と「身を尽くし(身体が滅びるまで)」。 「わたる」は「水面を渡る」と「一生続く」の両方の意味がありますね。 一首全体が輻輳するイメージに満たされた、技巧的な

      「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ」 皇嘉門院別当 難波江の一夜の恋に身を尽くし - 安心感の研究 by 暖淡堂
    • 「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」 崇徳院 騒乱の時代前夜 - 安心感の研究 by 暖淡堂

      百人一首第77番目の歌の作者は崇徳院すとくいんです。 前回の藤原忠通とともに保元の乱の中心人物。 崇徳院は騒乱の敗者となります。 今回は崇徳院について紹介します。 崇徳院とは 生年1119年、没年は1164年。 第75代天皇です。 鳥羽天皇の第一皇子。 母は待賢門院(藤原)璋子たまこ。 ただ、本当の父は鳥羽天皇の父、崇徳天皇の祖父にあたる白河天皇であるとの疑惑があります。 そのためか鳥羽天皇は崇徳天皇を嫌います。 それが保元の乱の一因とも考えられています。 崇徳天皇は保元の乱に敗れ、讃岐国に配流となります。 その地で亡くなりました。 髪を伸ばし放題にし、爪を切ることもなく、生きながら天狗になったとも言われています。 百人一首の歌は、保元の乱の前に作られたもの。 美しい風景を題材にした「恋歌」になっています。 その歌を作った頃と、保元の乱に敗れた後の姿と。 ものすごく変化が大きいですね。 激

        「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」 崇徳院 騒乱の時代前夜 - 安心感の研究 by 暖淡堂
      • 「わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の」 法性寺入道前関白太政大臣 闘争の日々の中での心の解放 - 安心感の研究 by 暖淡堂

        百人一首第76番目の歌の作者は法性寺入道前関白太政大臣ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん、藤原忠通です。 藤原忠通は保元の乱の中心人物。 弟の藤原頼長と闘い、藤原氏の頂点に立ちます。 動乱の時代の中心で生きた人です。 今回は法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)について紹介します。 法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)とは 生年1097年、没年は1164年。 藤原北家の人で、父は関白藤原忠実です。 藤原忠通は25歳で鳥羽天皇の関白となります。 その後も崇徳天皇、鳥羽天皇、後白河天皇の3代にわたって摂政、関白を務めました。 保元の乱、平治の乱を通じて肉親との対立がありました。 晩年には後白河上皇により、肉親と諍いを起こしたことを咎められて失脚。 政治の中心に復帰することもありましたが、最終的には出家し、亡くなります。 百人一首の歌は、崇徳院が主催した内裏歌合で詠まれたもの。

          「わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の」 法性寺入道前関白太政大臣 闘争の日々の中での心の解放 - 安心感の研究 by 暖淡堂
        • 【アニメ『平家物語』】2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では語られない討たれる側の物語。 - ioritorei’s blog

          アニメ 平家物語 平家物語 『平家物語』とは 作者は不詳 アニメ『平家物語』 あらすじ 2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では語られない討たれる側の物語 義経最大の武功「鵯越の逆落とし」の真相 結末を知っているからこその楽しみ方 祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいの理ことわりをあらはす。 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。 出典 : 作者不詳『平家物語』より 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 この『平家物語』の冒頭は、日本の古典文学の中でもっとも有名な一節の一つで、仏教的な無常観が表現されている。 『平家物語』とは 『平家物語』は鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などを描いたもの。 作者は不明であ

            【アニメ『平家物語』】2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では語られない討たれる側の物語。 - ioritorei’s blog
          • 崇徳院の和歌 - かきがら掌編帖

            ラジオで古典落語の『崇徳院(すとくいん)』を聴く機会がありました。昭和の名人、三代目桂三木助の録音です。その後、YouTubeで志ん朝の『崇徳院』も聴きました。 出入りしている商家の旦那に呼ばれてやってきた熊五郎は、若旦那が寝込んでいることを知らされます。医者の見立てでは気の病らしく、このまま放っておけば、もって5日の命らしい。 誰が聞いても心の内を明かさない若旦那ですが、熊五郎になら話してもよいというので、急遽呼び出されたわけです。 さっそく若旦那の部屋へ行って聞いてみると、病の正体は恋わずらいでした。 二十日ほど前、上野の清水観音堂へお参りした若旦那は、茶店で綺麗なお嬢さんを見初めました。お供の女中を連れたお嬢さんが、茶袱紗を落としたのにも気づかず、店から出て行こうとしたので、追いかけて手渡します。 そこで、お嬢さんから短冊をもらうのですが、書いてあったのは、 瀬をはやみ 岩にせかるる

              崇徳院の和歌 - かきがら掌編帖
            • 「忍ぶれど色に出にけりわが恋は」 平兼盛 内裏歌合での名勝負の勝者となった歌 - 還暦記:暖淡堂

              百人一首第40番目の歌の作者は平兼盛です。 三十六歌仙の一人。 平姓の人ですね。 臣籍降下で出来た平家の一人ですが、その系譜には若干不明な部分があるようです。 赤染衛門の実父でもあります。 今回は平兼盛について紹介します。 平兼盛とは 生年は不明です。没年は991年。 平安時代中期の人です。 村上天皇、冷泉天皇、円融天皇に仕えました。 最終官位は従五位上、駿河守でした。 平兼盛は和歌の才能が高く評価されています。 和歌の作品は、一句一句時間をかけて作られていたようです。 それでも技巧的な、難解なものになることはありませんでした。 そこが高く評価されている部分かもしれません。 時代背景 平安時代初期の終わり頃から中期にかけて、中国大陸では唐の滅亡、五代十国時代を経て宋による統一と、激動の時代が続いていました。 この間、中国大陸北東部で契丹建国(916年、後に、遼と改称)、高麗建国(918年)

                「忍ぶれど色に出にけりわが恋は」 平兼盛 内裏歌合での名勝負の勝者となった歌 - 還暦記:暖淡堂
              • 「祇園精舎」ってどこ?意外と知らない『平家物語』を解説

                はまだ・こういちろう/1983年大阪府生まれ。皇學館大学文学研究科国史学専攻単位取得退学。兵庫県立大学播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『日本人のための安全保障入門―憲法九条を中心に―』(三恵社)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『超訳 橋下徹の言葉』(日新報道)など著書・共著多数。 新説・新発見!今こそ学ぶ「歴史・地理」 研究の進展や新事実の発見などにより、学生時代に身に付けた“常識”は日々アップデートされている。 歴史、地理をテーマに押さえておきたい知られざる新説や、仕事にも示唆をもたらす新たな視点での解説をお届けする。 昨今の世界情勢や社会の変化を正しく理解するためにも、身に付けた知識をもう一度アップデートしてみよう。 バックナンバー一覧 鎌倉時代の軍記物語『平家物語』がテレビアニメ化され注目を集めてい

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                • 権勢の頂点から急にいなくなってしまった平家の存在意義 - 安心感の研究 by 暖淡堂

                  こんにちは、暖淡堂です。 Takachiko!Takachiko!暖淡堂の方で、現代詩やエッセイを続けて公開しています。 dantandho21.blogspot.com 平家物語は、僕の好きな本です。岩波文庫版の「平家物語」、何度も読んでいます。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、最終的に源氏の開いた鎌倉幕府に権力の中心が動くことから、源氏が勝った、源氏の世の中になったという理解がされがちかと思います。ただ、保元物語、平治物語、平家物語などと読み進めていると、なんだかちょっと違う理解の仕方もありかな、という気になってきます。 平安時代は多くの人が知っているように、藤原氏(藤原北家)に権勢が集中していました。天皇家やその他の皇族が、藤原氏側から見ると、自分達の権勢を強めるための仕組みの一つのように扱われてしまっています。それに対する天皇側からの逆転攻勢の一つの形が平清盛の登場ではないかと思っ

                    権勢の頂点から急にいなくなってしまった平家の存在意義 - 安心感の研究 by 暖淡堂
                  • 『萬松山龍潭寺』は徳川幕府を支えた井伊家歴代当主の菩提寺でお庭も有名 - sannigoのアラ還日記

                    こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。 今回訪ねる『萬松山龍潭寺』は、徳川幕府を支えた井伊家歴代当主の菩提寺です。現在放送中の大河ドラマ『どうする家康』では、板垣李光人さんが演じる24代井伊直政公の墓地も境内にあります。 24代井伊直政は15歳で家康に仕え活躍、徳川四天王と称され、徳川幕府の基礎づくりに大きく貢献しました。 忘れてはいけないのが、この浜松が舞台にもなった2017年放送のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』ゆかりの地でもあることです。 主人公の直虎は龍潭寺二世住職南渓和尚の協力で出家し、井伊谷地方を治める井伊家の女城主となりました。また、直虎は後に徳川家康の家臣として活躍することになる徳川四天王の一人、井伊直政の後見人となり養育した人物です。 ちょうど今は境内にある「梅」が満開になり始め、玄関前の「しだれ梅」が鮮やかなピンク色で咲き始めたところだそ

                      『萬松山龍潭寺』は徳川幕府を支えた井伊家歴代当主の菩提寺でお庭も有名 - sannigoのアラ還日記
                    • 『清水と源為朝』清水区の為朝伝説スポットまとめ! - 静岡市観光&グルメブログ『みなと町でも桜は咲くら』

                      清水に伝わる為朝伝説 昨年からアニメ化されたり、大河ドラマに名前だけ出たり、今月は某ソシャゲに実装されたりと、いまなにかと話題の武将・源為朝。 静岡市清水区も実は為朝と関係深いスポットがあり、伝説や言い伝えも多く遺されています。とはいえ一部地域に伝わる内容が多く、ほぼ観光資源化はされていません。 当記事では清水と源為朝に纏わる様々な伝説などをまとめました。あくまで郷土史の逸話としてお楽しみいただければ幸いです。 清水と源為朝 伝染病の流行から広がった神格化 そして清水では 清水の源為朝スポット 月見里笠森稲荷神社 いちろんさん 矢通り(八通り) 下清水八幡神社 為朝の墓 編集後記 清水と源為朝 源為朝が保元の乱で敗れ、死刑は免れるも伊豆大島への流刑となった際、京から護送され、伊豆への船を待つ数日間を過ごしたのが当時の清水とされています。 その際の記録や言い伝えから、いくつかの為朝伝説が清水

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                      • 「器量」の話―『徳政令』餘話 - 黌門客

                        笠松宏至『徳政令―中世の法と慣習―』(岩波新書1983)の話をもう少し続ける。 同書が、中世語「甲乙人」についても説いていることはさきに触れた。笠松氏はこの語の原義が、身分的な意味を有しない、ニュートラルな「第三者の総称」(p.122)であったことを述べ、これがなぜ「凡下(ぼんげ)百姓等」を意味するようになったかという問いを立て、その答えを追究している。 まず笠原氏は考察の前提として、 この頃(鎌倉末期―引用者)からまた、ある所領所職を、正当に知行しうる資格をもつ人間を「器量の人」とよび、その逆に資格のない人間を「非器」とよぶ法律用語が用いられはじめる(p.123) といった条件を挙げたうえで、次のようにいう。 ごくごく一般的にいって、中世の人間がある所領所職を、正当に(暴力や経済力だけではなく、社会的に認知された妥当性をもって)知行できる根拠は二つあると思われる。 その一つは、前述の「器

                          「器量」の話―『徳政令』餘話 - 黌門客
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