無医地区の渓谷に診療所を開こうと、隣国パキスタンから峠を越えて調査を続けていた時期のこと。傷は浅く、持ち歩いていた医療器具で自ら縫った。「かすり傷。大したことじゃなかったですね」 中村さんは1984年にパキスタン北西部ペシャワルの病院に赴任。その後、戦乱に追われたアフガン難民の苦境を知り、両国で診療所を展開していく。 転機は、2000年にアフガンで起こった大干ばつだった。乾きと飢えの犠牲者の多くは幼児。診療所の列を待つ間に腕の中で子どもが息絶え、ぼうぜんとする母親の姿は珍しくなかった。「もはや治療どころではない」。やむにやまれず土木の勉強を一から始め、00年に井戸を、03年からは用水路を掘り始めた。 アフガンの治安は最悪だ。安全確保には細心の注意を払ってきた。近年は原則として宿舎と作業現場を往復するだけ。車で移動中に少しでも渋滞したら、ライフルを持つ護衛が荷台から飛び降りて交通整理を行った