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達磨寺 奈良の検索結果1 - 8 件 / 8件

  • 奈良まほろばソムリエ検定の最上級を受験しました💧 - kumakuma blog   クマ子の奈良歩き

    皆さま、ものすごくお久しぶりです<(_ _)>💦 以前の記事では、奈良検定が控えているけれども、こちらの奈良歩きブログは勉強にもなるので、更新していきたい…と言っていたのですが…☟ www.norikuma2.com 実際のところは、試験2ヶ月前くらいから、いくら勉強しても足りないような状態になってしまい、全く更新できませんでした(@_@) やっぱり、奈良検定最上級の「ソムリエ級」は、手強かった…💧 ソムリエ級の合格点は70点(100点満点中)ですが、 前回(2020年1月実施)第14回の試験では、 平均点58.3点 合格率24.4% でした。 数字だけ見ていると、とても受かる気がしない…(;・∀・) そして私は、去る3月13日(日)に受験してきました。 今回の自己採点結果は…論文もあるので一概に言えませんが、 だいたい66~68点です( ゚Д゚)足リナイノヨ~ 試験前に石上神宮で合格

      奈良まほろばソムリエ検定の最上級を受験しました💧 - kumakuma blog   クマ子の奈良歩き
    • 宗祐寺(奈良県宇陀市)三点セットが結ぶ焦点【太子信仰と蝦夷】★ - ものづくりとことだまの国

      はじめに 聖徳太子の開基と伝わる #宗祐寺(創建時は多聞院)。太子にまつわる #東夷降伏の功 伝承 #殺生戒 の碑 御本尊の #毘沙門天。三点セットは蝦夷とヤマト王権の史実に焦点を結びます 目次 「東夷降伏の功」「殺生戒」「毘沙門天」 宗祐寺のこん跡・三点セットが結ぶ焦点★ 甲斐の黒駒伝承、遠野物語オシラサマ伝承(各要約。12月28日・29日記事再掲) アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る(連載中) 本文 「東夷降伏の功」「殺生戒」「毘沙門天」 奈良県宇陀市榛原に宗祐寺(そうゆうじ)という聖徳太子の開基(608年)と伝わるお寺があります。 元は、聖徳太子が「東夷降伏の功」を成就し毘沙門天を勧請した「多聞院」。参道入口に「聖徳皇太子殺生戒御舊跡(ごきゅうせき)」の石柱があり太子が仏の五心の一つである不殺生を説いていたことがうかがえます(以上、宇陀市ページ等よりまとめ) 平安時代末期(113

        宗祐寺(奈良県宇陀市)三点セットが結ぶ焦点【太子信仰と蝦夷】★ - ものづくりとことだまの国
      • 【七福神】弁財天とは?【弁才天・辨財天・辯才天】 - ウミノマトリクス

        今回は七福神の女神「弁財天」(べんざいてん)についてまとめていきたいと思います。 なお、弁財天の書き方は複数あります。 弁才天・辨財天・辯才天などありますが、本ブログに置いては「弁財天」と記載させていただいております。 人材を人財と書くような痛い会社とは違うからね! なお、弁財天が所属するチーム「七福神」についてはこちらにまとめています。 関連記事はこちらから 「七福神」とは?|知っているようで知らない七福神のこと 目次 目次 「七福神」とは? 弁財天のご利益 弁財天の真言 弁財天とは? インドからの神様 市寸島比売命 弁財天のデザイン 八臂弁財天:初期タイプの八臂姿で武器を持つ弁財天 二臂弁財天:琵琶を持つ 鳥居や宇賀神を乗せた 宇賀神と弁財天 銭洗弁財天(ぜにあらい) 銭洗弁財天の歴史 源頼朝が見つけた霊水 霊水で銭を洗う 銭洗弁財天(全国) 主な弁財天 日本三弁天 日本五大弁天 関東

          【七福神】弁財天とは?【弁才天・辨財天・辯才天】 - ウミノマトリクス
        • だるまさんがころんだの発祥地、奈良県達磨寺で聖徳太子のその名の由来を知る。 - 暮らしの顛末(くまくまコアラ)

          さてさて、今日はGRⅢを持って奈良県王寺町の達磨寺までやって来た。 JR大和路線「王寺駅」から歩くこと約15分。 王寺駅は2社4線が乗り入れている奈良県有数のターミナル駅。 その歴史は古く、1890年(明治23年)に駅が出来ると時代と共に交通の主要駅として発展してきた。 改札を抜け、様々な路線が複雑に交差する線路を下に眺めながら駅の南口ターミナルへと向かう久度大橋を歩く。 そこから国道168号線を500mほど歩くわけだが、今日のような陽射しが強い日は日影がない国道とアスファルトから来る熱気で少々へこたれる。 さて、話はタイトル回収に戻るが、達磨寺を訪れるとこのような案内板があった。 なにやら日本書紀によると、聖徳太子の叔母で、日本最初の女性天皇である推古天皇の21年12月1日。 聖徳太子がここ達磨寺がある片岡山に遊び行ったのだそうだ。 すると乗っていた愛馬が急に歩みを止めた。 見るとそこに

            だるまさんがころんだの発祥地、奈良県達磨寺で聖徳太子のその名の由来を知る。 - 暮らしの顛末(くまくまコアラ)
          • 4月3日、法隆寺で聖徳太子没1400年法要を見てきました - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

            今年2021年(令和3年)は、聖徳太子が亡くなって1400年にあたる年です。 聖徳太子と言えば、奈良の法隆寺。 そこで、 4月3日(土)に、 世界遺産で奈良県斑鳩町にある 聖徳太子の創建と伝わる法隆寺で、 聖徳太子をしのぶ特別法要が始まりましたので 見てきました。 (御遠忌) 2021年(令和3年)は、聖徳太子の没後1400年の「御遠忌(ごおんき)」とされ、 法隆寺では、聖徳太子の遺徳をしのぶ特別法要が、4月3日から3日間行われます。 (初日4月3日の様子) まずは、法要の初日・4月3日の動きを。 「東院伽藍にある夢殿を出発した行列が金堂や五重塔がある西伽藍に向かい、西伽藍で 法要を行い、終了後はまた東伽藍に向かい、ここで解散」という流れです。 初日の4月3日のまず最初は、法隆寺「東院伽藍」にある八角円堂の「夢殿」の本尊で 太子の姿を模したとされる救世観音像(くせかんのんぞう)に向かって僧

              4月3日、法隆寺で聖徳太子没1400年法要を見てきました - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
            • 戦国大和の最前線~片岡城~AR(拡張現実)で在りし日の城郭の姿を偲ぶ - 大和徒然草子

              皆さんこんにちは。 奈良県下の城跡の多くは現在民有地になっていることが多く、遺構が残っていても、無断で立ち入れない場合が少なくありません。 奈良県上牧町の片岡城跡も城跡のほとんどが民有地だったため、長らく表面観察できる場所が非常に限られた城郭でした。 しかし近年、主郭が城跡として整備され、自由に立ち入りできるようになりました。 今まで主郭周辺に立ち入ることができなかったことから、登城を見送っていた城跡だったのですが、これは足を運ばねばと先日登城しましたので、城跡周辺をご紹介します。 片岡城とは 下牧集落~大堀切 主郭 南郭 城跡西側 アクセス リンク 片岡城とは 片岡城の場所はこちら。 JR和歌山線の畠田駅から東へ徒歩15分ほどの場所にあります。 葛下川と滝川に挟まれた丘陵上に築かれた中世城郭で、16世紀初頭に代々現在の香芝市、王寺町、上牧町にまたがる一帯を支配していた片岡氏の当主、片岡国

                戦国大和の最前線~片岡城~AR(拡張現実)で在りし日の城郭の姿を偲ぶ - 大和徒然草子
              • 奈良県最大級の中世山城、信貴山城。松永久秀の夢の跡をめぐる - 大和徒然草子

                皆さんこんにちは。 今回は松永久秀の居城として知られる、信貴山城をご紹介します。 信貴山城とは 本丸 本丸~立入屋敷 段状曲輪群~松永屋敷 松永屋敷から東側の曲輪群 大谷池 松永久秀の供養塔 信貴山城跡の動画リンク リンク 信貴山城とは 場所はこちら。奈良県と大阪府の境、奈良県平群町にあります。 こちらが縄張り図。 雄嶽山頂部を本丸とし、その規模は南北880m、東西600mにわたり、大小の曲輪群を備えた、奈良県下屈指の巨大城郭になります。 城域は古代山城の高安城(たかやすのき)に含まれますが、この地に本格的な城郭が築かれたのは、1536(天文5)年頃、木沢長政によるものでした。 長政は、細川晴元の被官として台頭し、河内国に続いて大和国へ進出。この時「大和守護」を自称した長政が、河内、大和の支配拠点としたのが信貴山城です。 それまで、信貴山城は臨時の砦程度の城郭でしたが、長政は多くの家臣が集

                  奈良県最大級の中世山城、信貴山城。松永久秀の夢の跡をめぐる - 大和徒然草子
                • 竜田越え奈良街道・西和最大の宿場町、龍田。旧街道沿いの町並みと龍田神社、中井正清ゆかりの古刹とぽっくり寺・吉田寺を巡る - 大和徒然草子

                  皆さんこんにちは。 前回は、住宅街に埋もれた幻の城郭・龍田城についてご紹介しました。 今回は旧竜田越え奈良街道(以下、奈良街道)に残る龍田の町並みを中心に、龍田神社周辺と、吉田寺(きちでんじ)ご紹介します。 龍田の町とは 竜田越え奈良街道沿い 龍田神社 浄慶寺 吉田寺 龍田の町とは 龍田は奈良県斑鳩町の町役場から西側、龍田神社を中心として旧奈良街道沿いを東西に広がるエリアです。 江戸時代の龍田は奈良と大阪を結ぶ奈良街道の宿場町で、その規模は郡山に次ぐ規模を誇り、西和地域最大の商業地として栄えました。 龍田神社の門前は当麻街道と分岐する辻で、旅籠や商家が軒を連ね、人々が盛んに往来する様子が18世紀後半に出版された『大和名所図会』にも描かれています。 大和名所図会巻三 立田新宮(奈良県立図書情報館蔵) 商業地としての龍田の歴史は古く、法隆寺の寺内行事が記述された『寺要日記』1243(寛元元)年

                    竜田越え奈良街道・西和最大の宿場町、龍田。旧街道沿いの町並みと龍田神社、中井正清ゆかりの古刹とぽっくり寺・吉田寺を巡る - 大和徒然草子
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