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会津藩の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • 会津藩の古文書を電子化 会津図書館所蔵471点、ネット公開へ:福島民友ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet

    会津若松市は新年度、同市の会津図書館で所蔵する会津藩関連の古文書などをデジタル撮影し、高精細画像をインターネット上で公開する「デジタルアーカイブ事業」を展開する。 資料に直接触れることで生じる汚れや破損を防ぐ一方で、デジタル化した資料をいつでも閲覧できるようにして会津藩の研究などを促進する。画像の公開は、来年3月末までに始める予定。 デジタル化されるのは、江戸時代後期の藩士の出自などをまとめた「諸士系譜」、戊辰戦争後の旧藩士らの動向が分かる貴重な資料「南部移転人別帳」など古文書471点。 同図書館には、会津を離れた藩士の子孫から先祖に関する問い合わせが多いため、所蔵する2千点以上の資料から、藩士関連の記録などを中心にデジタル化することを決めた。 このほか、会津藩主松平容保(かたもり)が江戸に出向く様子を描いた「参勤交代行列図」など絵図5点も公開する。 市は今後、ほかの古文書や古写真などのデ

      会津藩の古文書を電子化 会津図書館所蔵471点、ネット公開へ:福島民友ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet
    • 徳川慶喜が[会津藩]を見捨てた真相!

      徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)と言えば将軍に就任してから1年足らずで大政奉還をした人物で、戊辰戦争の最初の戦争である鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは敵前逃亡をしたヒドイ人物として評価されています。特に、会津藩のファンにとっては慶喜をヒドイ人物として評価していると言われています。 しかし一方で、大政奉還をすることによって日本の近代化を進めることができたことから、彼を高く評価する人もいます。実際に大政奉還で新政府に移行できたことに貢献したことで、慶喜の葬儀に多くの政府関係者が参列したと言われています。この記事では、コロコロ変わる徳川慶喜の方針と会津戦争に至るまでの過程について取り上げます。また、この記事を通して会津藩主だった松平容保(まつだいら かたもり)について評価します。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を

        徳川慶喜が[会津藩]を見捨てた真相!
      • 会津藩の史料をデジタル化 若松城下絵図や藩士のデータベースも | 河北新報オンライン

        福島県会津若松市の会津図書館は藩制時代後期から明治初めにかけて編集された藩士の系譜や名簿、地誌、絵図などをデジタル化し、インターネットで公開している。図書館は「会津藩研究の基礎になる史料に気軽に触れ…

          会津藩の史料をデジタル化 若松城下絵図や藩士のデータベースも | 河北新報オンライン
        • 会津藩が京都守護職にならなかったら同志社大学は京都に開校していなかった? - ウェブ1丁目図書館

          京都御苑の北に同志社大学の今出川キャンパスがあります。 かつて、この地は薩摩藩の藩邸があった場所でしたが、数奇な運命を経て同志社大学の前身である同志社英学校を開いた新島襄の所有となりました。 新島襄が、今出川キャンパスの地を手にする遠因となったのは、幕末に会津藩が京都守護職となり上洛したことにあります。もしも、会津藩が京都守護職にならなければ、同志社大学は別の場所に設立されていたかもしれませんし、場合によっては設立されなかったかもしれません。 薩摩藩と会津藩の同盟 作家の高野澄さんの著書『京都の謎 東京遷都その後』では、明治になり、首都が東京に遷った後の京都が、どのようにして発展していったのかが解説されています。古びていくだけだった京都を様々な人たちが近代化を進め、現在の姿へと進歩させていった過程を知ることができます。 その京都の近代化に尽力した一人が元会津藩士の山本覚馬でした。 山本覚馬

            会津藩が京都守護職にならなかったら同志社大学は京都に開校していなかった? - ウェブ1丁目図書館
          • 6歳から仏間で「切腹の練習」をする…「武士の中の武士」と呼ばれた会津藩のすさまじい子育てルール 「ならぬことは、ならぬものです」を徹底させる"什の掟"

            勇敢な薩摩隼人をつくり上げた教育システム 薩摩武士の勇猛さは江戸時代、天下に知れ渡っていたが、ようやく薩摩藩に藩校が設定されるのは安永2年(1773)のことで、それ以前は郷中ごうちゅうと呼ばれる教育システムが藩士の育成を全面的に担っていた。 薩摩藩では藩士の子供たちは郷中(方限ほうぎり)と呼ぶ近隣グループをつくって自主教育をおこなった。6歳から10歳頃までを小稚児こちご、11歳から15歳頃までを長稚児おせちご、15歳から25歳頃(妻帯前)までを二才にせと呼び、それぞれの同年齢集団がお互いに研鑚しあった。 また小稚児集団は長稚児に、長稚児は二才に指導を仰ぐ年功序列の教育制度が機能していた。 郷中は特定の教育施設を持たないが、稚児は毎朝6時に自分の敬愛する二才の屋敷へ行き、そこで四書五経などを学ぶことになっていた。午前8時になると、路上や広場に集まって同年齢集団で相撲や戦ごっこ、駆けっこや縄跳

              6歳から仏間で「切腹の練習」をする…「武士の中の武士」と呼ばれた会津藩のすさまじい子育てルール 「ならぬことは、ならぬものです」を徹底させる"什の掟"
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