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木崎原の戦いの検索結果1 - 3 件 / 3件

  • 島津軍300と伊東軍3000でぶつかった「木崎原の戦い」が和製『300』過ぎるって話…島津特攻・妙林尼の話も

    すごい愛人 @sugoi_seibyou 島津義弘が伊東家約3000人に対して300人で勝利した木崎原の戦いというやばい戦いがあるんですが、勝った島津家の死者が260人ぐらいいるっていうのが一番怖いポイント 2020-07-26 23:49:13 リンク Wikipedia 木崎原の戦い 木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人)しか持っていなかった島津側に敗北を喫したことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。但し桶狭間の戦いとは違い、島津軍も兵力の85%以上が討死し、ほぼ全滅した。この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の謀略により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し

      島津軍300と伊東軍3000でぶつかった「木崎原の戦い」が和製『300』過ぎるって話…島津特攻・妙林尼の話も
    • 木崎原の戦いとは?兵力差10倍を覆す!「九州の桶狭間」をわかりやすく解説! | 戦の図鑑

      「木崎原の戦い」は日向国統一を目指した伊東義祐が、当主を失ったばかりの島津家に挑んだ戦い。 この戦いでは伊東軍3000vs島津軍300という、島津軍の圧倒的不利な戦況でしたが、大将の島津義弘の活躍で島津軍が勝利。 両軍の戦死者が1000人を超える激戦となりました。 木崎原の戦いまで 当主、島津貴久の死 時は1571年、島津家当主の島津貴久が病死します。 父の肝付兼続が貴久との戦いで死に、島津家へのリベンジに燃える肝付兼亮は 肝付兼亮 当主が死んだ今が、島津家を倒すチャンスだ と島津家の代替わりを狙い、島津家の薩摩国へと侵攻を始めました。 そして同じく、日向国の大部分を支配していた伊東義祐も 伊東義祐 肝付家側について島津家を倒そう 日向国における島津家の勢力を排除するため、島津家への戦いを表明します。 木崎原の戦い 加久藤城での奮戦 義祐はまず、人吉城を拠点とする相良義陽に 伊東義祐 伊東

        木崎原の戦いとは?兵力差10倍を覆す!「九州の桶狭間」をわかりやすく解説! | 戦の図鑑
      • 吉松の熊野神社・内小野寺跡、木崎原の戦いの前に島津義弘が戦勝を祈願した - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

        鹿児島県北部の山間に「湧水町」という自治体がある。2005年に吉松町と栗野町の合併により発足したもので、湧水が多い地域であることから新町名もつけられている。このあたりは霧島連山の西麓に位置し、山々が蓄えた水が湧出する。湧水町内では栗野(くりの)の丸池湧水(まるいけゆうすい)、吉松(よしまつ)の竹中池湧水(たけなかいけゆうすい)が知られている。 竹中池湧水の近くにある熊野神社(くまのじんじゃ)は素敵な場所である。境内に湧水が湧き、なんとも心地良い雰囲気なのだ。かつてここには内小野寺(うちおのじ)もあった。島津義弘(しまづよしひろ)も崇敬した場所でもある。 内小野寺は明治時代初めの廃仏毀釈で廃寺となり、熊野神社のみが残る。かつての様子は『三国名勝図会』の絵図で確認できる。 『三国名勝図会』より内小野寺(国立国会図書館デジタルコレクション) 『三国名勝図会』とは鹿児島藩(薩摩藩)が編纂させた地誌

          吉松の熊野神社・内小野寺跡、木崎原の戦いの前に島津義弘が戦勝を祈願した - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
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