現代の知識階級の悲哀は彼等が次第に自分の本質を失って無識になるつつあるということである。なるほど彼等は物を読む、けれどもそれは彼等の生の不安に原因を有するところの好奇心に刺戟されてのことであり、そういう風にして唯新しいものを漁っていたのでは好いものと悪いものとの区別も出来なくなり、知識は結局無識に等しい。否、彼等は新しいものと古いものとの区別さえ出来なくなりつつあるのである。 三木清 「講義録狂」(1932年8月) 今年は哲学者・三木清の生誕120年目。 ということで、年明け早々、講談社文芸文庫から『三木清 教養論集』が出ていました。 三木清教養論集 (講談社文芸文庫) 作者:三木 清講談社Amazon 1932年から1941年までの10年間に、新聞や雑誌などに寄稿された比較的短いエッセイの数々が、読書論・教養論・知性論の三部に大きく分けて収録されています。 情熱的で明晰でチャーミングな文
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