波 2012年 05月号 [雑誌] 出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2012/04/27メディア: 雑誌この商品を含むブログ (1件) を見る新潮社,波5月号. 永田和宏氏による連載,「河野裕子と私 歌と闘病の十年」が5月号で了となった.河野裕子は2010年8月に亡くなった歌人,そして,永田和宏はその夫で,歌人であると同時に.細胞生物学者で京大名誉教授.河野裕子女史の乳癌との闘いとともに,生と死,家族,夫婦それぞれの絆と軋轢を綴ったもの.歌人であり,科学者である永田の眼を通して,家族一人一人の思いを二人の二とともに語る.だから,文学や人生を語りつつも,時に分析的であり,冷静に状況を見つめる.記述を通して感じるのは,何よりも家族の間の強い信頼関係である.だから,当の家族にとっては修羅場であったに違いないのだが,落ち着いて読むことができる. 手をのべてあなたとあなたに触れたとき息が足りない
河原修吾「隣の奥さん」(「コオサテン」2、発行日不詳) 河原修吾「隣の奥さん」は軽快である。ことばが意味にならずに、というと誤解を与えるかもしれないが、意味であるより音として輝いている。 奥さんが春を纏っていた 手を伸ばして歩道の草を取っている お尻の線の円周率くっきりと 微分して直線に 積分して曲線に歩く ぼくの足の音に 奥さんはふりかえった きらきら光る汗 両手の草 奥さんの胸と躰が無防備に曝け出された ぼくの朝の陽がまっすぐに立った まぶしさを包んだ視線が 奥さんにあたって 空の一角を貫く 夜の露を溜めた草が揺れて落ちる 奥さんの草をぼくは踏んでいた あっという小さな声が世界から漏れる 空の群青がそよぎ ぼくは横を駆け抜けた 明るい春--を通り越して、まばゆい春。光がいっぱいの春だなあ。 お尻の線の円周率くっきりと 微分して直線に 積分して曲線に歩く という3行。具体的(?)には何の
今西富幸「がん首」(「イリプスⅡnd」9、2012年05月25日発行) 今西富幸「がん首」を読みながら、ことばの暴力について考えた。というか、暴力ということばがふいに思いつき、そのことについて書いてみようと思った。 肉欲の棒を突き刺され 藤島あい子は死んだ 台風一過の朝に わたしはふいに その記事を読んだのだった 中学生のころの制服が写っていた 大阪西成の簡易宿泊所で 愛情のもつれによる暴行とみられる みられると新聞は書いた しかし、 みられるとはいったいなんであるのか 致命傷ではなかったその一撃が 書かれなかった事実 台風3号が通過した夜の事実 「みられると新聞は書いた/しかし、/みられるとはいったいなんであるのか」と今西は怒っている。「みられる」ということばに対して怒っている。「みられる」にはとんでもない暴力が隠されているのだ。 文法的には「みられる」は推量をあらわす。断定しない。 な
その殺りくは、急降下するヘリコプターに乗ったプロの手で行われた。ヘリのプロペラの下の光景は冷酷無残なものだった。弾丸が空から降り注ぐ中で、母は子をかばい、身の毛のよだつような金切り声があたりに響き、低木の茂みは血に染まった。射撃が終わると、そこには22頭のゾウの死骸が横たわっていた−これはコンゴ民主共和国北東部での過去最悪のゾウ狩りの一つの模様だ。 ソース:Браконьерство в Африке : НОВОСТИ В ФОТОГРАФИЯХ アジアからの需要増大でゾウとサイの密猟増える 南スーダンとの国境近くにあるガランバ国立公園でのこの殺りくのあと、密猟者たちは象牙と生殖器の採取に取り掛かった。この残忍な略奪品は、アフリカとアジアを結ぶ「象牙の道」の一部である南スーダンやウガンダを通って密輸される公算が大きい。 動物保護活動家らによると、アジアの人々の購買力の高まりとともに需要が
「明晰夢」とは自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことで、明晰夢の経験者はしばしば、夢のストーリーを自由自在にコントロールできると語っている。つまりは夢だという自覚があるので、その内容を自分の思い通りに変えられるというわけだ。 「明晰夢」を見たい!夢の中でやりたい放題したい!そんな願望を手助けする画期的なアイマスクがが開発された。製品化はほぼ間違いないそうで、現在予約受付中だという。
母親、そばにいると口うるさくてうっとおしいと感じるのは世界共通のようだが、いなくなったときその小言は、最強の愛情のリソースとなる。シンガポールで母の日に制作された、全ての母親へのオマージュ映像。本当に感謝したいときにいなくなっちゃうのが親というもの。いつか必ず来る別れの前に後悔のないよう、たっぷりとその愛情をかみ締めて。
幸福は外に現れる 現代人は健康を味わえない 名誉心について 人間の虚栄心は死をも対象とすることができる 真の懐疑は精神の成熟を示すものである 断念する者のみが希望することができる 純粋に懐疑に止まることは困難である。ひとが懐疑し始めるや否や、情念が彼を捕えるために待っている。だから真の懐疑は青春のものでなく、むしろ既に精神の成熟を示すものである。青春の懐疑は絶えず感傷に伴われ、感傷に変ってゆく。 【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)】 三木清
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