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興福寺に関するshibayan1954のブックマーク (2)

  • 奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか

    前回は高村光雲の文章を紹介したが、この文章では廃仏毀釈の文化財破壊については「随分結構なものが滅茶々々にされました」といった表現にとどめていて、廃仏毀釈の事例として具体名を挙げて書いているのは興福寺の五重塔が「二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかった」と言う話と、鎌倉の鶴岡八幡宮の一切経が浅草の浅草寺に移されたことが簡単に書いているだけだ。今回はもっと具体的な記録が残されている文章を紹介しよう。 東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を明治34年(1901)から昭和7年(1932)まで31年間も勤めた正木直彦(1862~1940)が、東京美術学校在職中に語った講話などを記録し校友会雑誌に連載された記事を抄録した『十三松堂閑話録』というが昭和12年(1937)に出版されている。 古いなので現物を手に入れることは難しいが、有難いことにGoogleブックスでその文章を誰でもパ

    奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/03
    公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物が、わずか30歳という若さで奈良県令の地位に就き、この人物が2年の任期の間に数々の仏教排除策を強行し、興福寺五重塔を焼こうとしたが町民の愁訴で中止されている。
  • 悲しき阿修羅像

    今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。 その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。 今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内であったのだが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたらしい。そのために興福寺には今も門もなければ塀もない。正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という作品があるそうだが、この経緯を知らなければこの句を理解することはできないだろう。 興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影

    悲しき阿修羅像
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/28
    興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影された72枚の写真が公表されている。その中に二本の腕がぽっきりと折れている阿修羅像の写真が残されている。
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