以前このブログで、滋賀県大津市坂本の日吉大社の廃仏毀釈が、慶応4年(1868)3月に神仏分離令が出て最初に行なわれたものであり、この時に仏像や仏画や経巻・法器などを徹底的に破壊したリーダーは神祇官権判事の樹下茂国であったことを書いた。 それまでの日吉大社は「日吉山王権現」と呼ばれ、いずれの社殿も南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られていた。社殿には仏像や僧形の木像を神体にし、多くの経巻などが備えられている「神仏習合」の施設であったという。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html ところが日光東照宮をはじめとする日光の社寺も、当時は南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られており、「神仏習合」の施設であったことは滋賀県の日吉大社と同じなのである。 今でこそ日光東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺に分かれているのだが、
![日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/c87af5846e3a24aa9a80f8b1cece68134ff1a4ff/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fblog-imgs-43.fc2.com%2Fs%2Fh%2Fi%2Fshibayan1954%2Fnikkoupic01.gif)