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2017年12月3日のブックマーク (9件)

  • 日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2

    以前このブログで、滋賀県大津市坂の日吉大社の廃仏毀釈が、慶応4年(1868)3月に神仏分離令が出て最初に行なわれたものであり、この時に仏像や仏画や経巻・法器などを徹底的に破壊したリーダーは神祇官権判事の樹下茂国であったことを書いた。 それまでの日吉大社は「日吉山王権現」と呼ばれ、いずれの社殿も南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られていた。社殿には仏像や僧形の木像を神体にし、多くの経巻などが備えられている「神仏習合」の施設であったという。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html ところが日光東照宮をはじめとする日光の社寺も、当時は南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られており、「神仏習合」の施設であったことは滋賀県の日吉大社と同じなのである。 今でこそ日光東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺に分かれているのだが、

    日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/03
    徳川家の聖地であり神仏習合の施設であった日光山が、戊辰戦争に巻き込まれなかったのは偶然的な要素もあるが、廃仏毀釈の嵐を乗り切ったのは彦坂諶厚をはじめ、多くの人の努力が実を結んだものである。
  • 神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった

    このブログで、岐阜県安八郡神戸(こうど)町にある日吉(ひよし)神社に三重塔が残されていることを先月書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html この日吉神社は弘仁8年(817)に伝教太師 (最澄)が近江坂の日吉神を勧請したことにはじまると伝えられており、かつてこのあたりは比叡山延暦寺の荘園があって、その荘園を鎮守する神社として発展したという。 かつては「日吉」は「ひえ」と読み、比叡山を意味するのだそうだが、全国に日吉神を祀る神社は2000社ほど存在し、その総社が比叡山の滋賀県側の麓にある日吉大社(大津市坂)である。 神戸町の日吉神社には美しい三重塔が残されているのだが、その総社である日吉大社については、明治維新時の廃仏毀釈で仏教施設や仏像仏具が徹底的に破壊されてしまっている。実は、この日吉大社の廃仏毀釈は、

    神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/03
    明治の初めに神祇官が神仏分離令を出したのち、多くの仏像や仏具の破壊を最初に主導したのは日吉山王権現の社司であった樹下茂国で、彼は神祇官神祇事務局権判事で神仏分離令に関与した人物である。
  • 全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか

    以前このブログで薩摩藩の廃仏毀釈のことを書いた。 薩摩藩には文化3年(1806)に19巻の『薩藩名勝志』という書物が出版されたほど、歴史ある寺社が多数存在していたはずなのだが、廃仏毀釈で1066あったすべての寺院がひとつ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられてしまった。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.html このような激しい破壊行為は明治維新直後の神仏分離令以降に行われたとばかり考えていたし、実際に多くの歴史書ではそう書かれている。 たとえば昭和8年に出版された『岩波講座日歴史』では、「明治維新となり、神仏分離令も出て、廃仏の気勢は天下に漲った」と書かれていて、それまでは廃寺の準備がなされたとだけ書かれている。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217767/11 昭

    全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/03
    「毀鐘鋳砲の勅諚」が出された3年後の安政5年の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めていた。薩摩藩はそれらの梵鐘を鋳潰して兵器だけではなく贋金の原料にした。
  • 寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府

    嘉永6年6月3日(1853年7月)、ペリーが米大統領フィルモアの親書を携え、艦隊を率いて浦賀に姿を現わしてから1年半が経過した安政元年12月23日(西暦1854年1月)に、こんな太政官符が出ている事が、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に紹介されている。 「それ外寇事情は、固より深く、宸襟を悩ませらるる*ところなり。…国家の急務、ただ海防にあり。よって諸国寺院の梵鐘を以て、大砲、小銃を鋳造し、海内枢要の地に置き、不慮に備えんと欲す。速やかに諸国寺院に令し、各時勢を存じ、寺の外、古来の名器、及び報時の鐘を除き、其の他は悉く、大砲に鋳換え、皇国擁護の器と為すべし。…」 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/23 *宸襟を悩ませらるる:天皇陛下の御心を悩ます。当時の天皇は攘夷派の孝明天皇(在位:1846~1867)であった。 この「毀鐘鋳砲(き

    寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府
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    shibayan1954 2017/12/03
    安政元年12月23日に「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)の勅諚」が出ている。「国家の急務、ただ海防にあり。よって諸国寺院の梵鐘を以て、大砲、小銃を鋳造し、海内枢要の地に置き、不慮に備えんと欲す。」
  • 水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯

    前回は、明治維新後に神仏分離令が出されて、各地で廃仏毀釈が起こった事情を書いた。 昔は出雲大社のような有名な神社にも三重塔などの仏教施設があったのだが、「神仏分離」とは神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別させようという考え方だ。 上の図は寛永期(1624~1645)の出雲大社の絵図だが、このように出雲大社においてさえ境内の中に三重塔があったことがわかる。 この三重塔が、兵庫県八鹿町の但馬妙見山にある日光院という寺に移され、明治維新で名草神社の所有となったことを以前このブログで記事に書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html なぜ出雲大社が三重塔を手放したかというと、寛文の大造営の時に、宮司の千家尊光が松平直政と図り、両部神道から唯一神道に変換する方針で臨んで出雲大社の神仏習合は廃されることとなり、三重

    水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯
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    shibayan1954 2017/12/03
    水戸藩の徳川光圀公は、寛文5年以降2千以上の寺院の整理を行ない、同時に神仏混淆をも禁じている。また一郷一社の制を定め、正しき由緒ある神を祀ってその地の鎮守とし、淫祠と判定された神社も3千以上整理した。
  • 江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

    このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。 この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。 梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。 標準的な教科書である『もういちど読む 山川日史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。 「廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言

    江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
  • 廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ

    前回の記事で奈良の最初の県令であった公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物の廃仏政策で、興福寺が多大な被害を受け、内山永久寺という大寺が破壊されたことを書いた。県令というのは大名に代わって地方行政を任された明治政府の役人である。 この四條隆平が奈良の県令の地位にあったのは、明治4年11月から明治6年11月とわずか2年のことなのだが、この県令による廃仏政策で興福寺の門跡寺院であった一乗院、大乗院が廃寺となり、内山永久寺のほかにも、大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺であった大御輪寺(おおみわでら)も姿を消してしまった。 和辻哲郎の『古寺巡礼』に、聖林寺にある国宝の十一面観音立像は天平時代のもので、かっては大御輪寺の尊であり、この国宝仏がどのような経緯で聖林寺に移されたかが書かれている。 「…この偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、

    廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
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    shibayan1954 2017/12/03
    明治4年から14年まで堺県令であった薩摩出身の税所篤は、奈良県が堺県に編入された以降、奈良の寺院から美術品や工芸品を収奪し、転売して私腹を肥やしていた。こんな人物が、維新の功を認められて子爵になっている。
  • 奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか

    前回は高村光雲の文章を紹介したが、この文章では廃仏毀釈の文化財破壊については「随分結構なものが滅茶々々にされました」といった表現にとどめていて、廃仏毀釈の事例として具体名を挙げて書いているのは興福寺の五重塔が「二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかった」と言う話と、鎌倉の鶴岡八幡宮の一切経が浅草の浅草寺に移されたことが簡単に書いているだけだ。今回はもっと具体的な記録が残されている文章を紹介しよう。 東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を明治34年(1901)から昭和7年(1932)まで31年間も勤めた正木直彦(1862~1940)が、東京美術学校在職中に語った講話などを記録し校友会雑誌に連載された記事を抄録した『十三松堂閑話録』というが昭和12年(1937)に出版されている。 古いなので現物を手に入れることは難しいが、有難いことにGoogleブックスでその文章を誰でもパ

    奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/03
    公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物が、わずか30歳という若さで奈良県令の地位に就き、この人物が2年の任期の間に数々の仏教排除策を強行し、興福寺五重塔を焼こうとしたが町民の愁訴で中止されている。
  • なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか

    このブログで何度か明治初期に起こった廃仏毀釈のことを書いてきた。この時期にわが国の寺院が半分以下になり、多くの国宝級の文化財を失ってしまったのだが、そもそも廃仏毀釈が起こる前のお寺や神社がどのような姿であり、一般民衆は廃仏毀釈をどう受け止めたかについて調べていると、高村光雲の文章が眼に止まった。 高村光雲は上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家で詩人の高村光太郎の父親でもあるのだが、仏師であった高村東雲の徒弟となったものの、明治維新以後は仏師としての仕事がなくなり、西洋美術を学んで日の木彫技術の伝統を近代彫刻に繋げた人物だと評価されている。 その高村光雲が口述し、昭和4年に出版された『幕末維新懐古談』というがあり、平成7年に岩波文庫で再刊されている。残念ながらその岩波文庫も今では絶版になってしまったが、有難いことに青空文庫で全文を読むことが出来る。 その中に「神仏混淆(こんこう)廃止改革され

    なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/03
    国家の生産力や財源を把握せずして新政府の政策決定が出来るはずがなく、長期安定的な政権運営も不可能だろう。しかし、そのために必要な台帳は幕府や諸藩ではなく、寺に存在したということは重要なポイントである。