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薩摩藩に関するshibayan1954のブックマーク (3)

  • 全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか

    以前このブログで薩摩藩の廃仏毀釈のことを書いた。 薩摩藩には文化3年(1806)に19巻の『薩藩名勝志』という書物が出版されたほど、歴史ある寺社が多数存在していたはずなのだが、廃仏毀釈で1066あったすべての寺院がひとつ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられてしまった。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.html このような激しい破壊行為は明治維新直後の神仏分離令以降に行われたとばかり考えていたし、実際に多くの歴史書ではそう書かれている。 たとえば昭和8年に出版された『岩波講座日歴史』では、「明治維新となり、神仏分離令も出て、廃仏の気勢は天下に漲った」と書かれていて、それまでは廃寺の準備がなされたとだけ書かれている。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217767/11 昭

    全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/03
    「毀鐘鋳砲の勅諚」が出された3年後の安政5年の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めていた。薩摩藩はそれらの梵鐘を鋳潰して兵器だけではなく贋金の原料にした。
  • 薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった

    前回は生麦事件における江戸幕府の対応を書いたが、今回は薩摩藩の対応を書くことにする。 イギリスは江戸幕府から、得意の砲艦外交により10万ポンドの賠償金の獲得に成功し、次いで鹿児島の錦江湾に7艘の大艦隊を回航せしめ、薩摩藩からも2万5千ポンドの賠償金を獲ろうと企てたのだが、薩摩藩は一歩も引かなかったのである。 国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、薩英戦争に関する記述がありそうなを探す。「薩英戦争」で検索すると、ネットで閲覧可能な26冊の古書がヒットする。 昭和16年に出版された『維新史第3巻』(維新史料編纂事務局)を読むと、薩摩藩がこの日の来ることを想定して、周到な準備をしていたことがわかる。次のURLにその該当部分がある。(原文は旧字旧かな。以下同じ) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242358/265 「…生麦事件勃発以後は、早

    薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/16
    英国は幕府から砲艦外交により10万ポンドの賠償金の獲得に成功し、次いで鹿児島の錦江湾に大艦隊を回航せしめ、薩摩藩からも2万5千ポンドの賠償金を獲ろうと企てたのだが、薩摩藩は一歩も引かなかったのである。
  • 獅子文六の「南の風」と福昌寺跡

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