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覚えておくと社会学に関するshibuyan730のブックマーク (3)

  • 日本はこれからどこへ行くのか - 内田樹の研究室

    先日若い研究者たちと話したときに、自分の立ち位置はどこかということが話題になった。私は自分の立ち位置を「大風呂敷を広げること」だと思うと言った。「屋」、人はそれぞれ自分の得意なスタイルで研究すればよいのではないかと申し上げた。 私は若いときからいつも「ウチダの論文は、話は面白いが論証が雑だ」と批判され続けてきた。その通りなので反論したことがない。でも、「面白い話」を思いつくと、どうしても黙っていることができないのである。 助手の頃、フランスの文芸理論家モーリス・ブランショがナチ占領下のパリで出した『文学はいかにして可能か?』という文体論を「検閲を逃れるために暗号で書いた自らの30年代の政治活動に対する総括」だという仮説から逐語的に読み直すという大風呂敷論文を書いたことがあった。学界では「バカなことを言うな」と一笑に付されたが、その後ブランショ自身が「あれは暗号で書いた政治論文である」

    shibuyan730
    shibuyan730 2016/03/13
    メディアもそうだが、人工知能もまた変化をもたらす存在たり得るので、変化を止めようと思うと強制的にコンピューターの電源を落とさないと、この流れは止まらないような気がしますね。
  • “消費の時代”から“生産の時代”へ - デマこい!

    ニコニコ動画やPixivなどの登場する“前”と“後”で、私たちの価値観は大きく変わってしまったようだ。「カッコよく 消費すること」が至上の価値だった時代から、「カッコよく 生産すること」が重視される時代になった。商品や情報をただひたすら飲み込むだけでは、もはや“カッコ悪い”と見なされる。制作物や情報を発信してこそ“カッコいい”と評価される――。 当に、そういう時代になったのだろうか? 当だとしたら、変化の原因は何だろうか? 1.情報爆発 いまの中高生には想像できないかもしれないが、かつて“消費の時代”があった。いい年した大人たちが、あるいはすべての子供たちが、消費しかしない時代があった。CM放映されたものをいち早く買ったやつがカッコいいと見なされる:そういう時代が当にあったのだ。 Beforeニコ動の時代では、「カッコよく 消費する」ことが重要視されていた。自我を確立するためには、他

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  • 「追い出せデモ」から考える、「ポスト社会運動」の影響力について - 荻上式BLOG

    id:macskaさんが、昨日埼玉県蕨市で行われた「カルデロン一家追い出せデモ」について触れていたので(参照)、僕も少し触れておきたい。バタバタしていて、まとまったエントリ書く時間があまりなかったんだけど、件については気になったので、多くの記事やブログの動向だけはずっと追っていた。特に有意義な試みを共有するため、僕も改めてe-politics のサイトを紹介しておこう*1。 このデモの当日には、どうやら100人近い支持者が集まり、カルデロン一家の住居の近隣を「犯罪者一家をたたき出せ!」と声をあげながら歩いていた模様。その一部はネット中継されていたので、僕も中継を見ていたのだけれど(一部というのは、電波が悪かったのか、途中で中継が止まってしまったことと、その中継カメラのポジションからは、全体像が非常に分かりにくかったため。なので、ほとんどの人は編集された動画経由でしか見れなかったと思う。余

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