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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (2)

  • 宮沢賢治 ビジテリアン大祭

    私は昨年九月四日、ニュウファウンドランド島の小さな山村、ヒルテイで行われた、ビジテリアン大祭に、日の信者一同を代表して列席して参りました。 全体、私たちビジテリアンというのは、ご存知の方も多いでしょうが、実は動物質のものをべないという考(かんがえ)のものの団結でありまして、日では菜主義者と訳しますが主義者というよりは、も少し意味の強いことが多いのであります。菜信者と訳したら、或(あるい)は少し強すぎるかも知れませんが、主義者というよりは、よく実際に適(かな)っていると思います。もっともその中にもいろいろ派がありますが、まあその精神について大きくわけますと、同情派と予防派との二つになります。 この名前は横からひやかしにつけたのですが、大へんうまく要領を云(い)いあらわしていますから、かまわず私どもも使うのです。 同情派と云いますのは、私たちもその方でありますが、恰度(ちょうど)仏教

    shichimin
    shichimin 2017/06/26
  • 寺田寅彦 科学者とあたま

    私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。 「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、それを指摘し解説する人が比較的に少数である。 この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧(あいまい)不鮮明から生まれることはもちろんである。 論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密(ちみつ)な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、

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