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日中戦争に関するshidehiraのブックマーク (3)

  • 盧溝橋事件から79年 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    1937年7月7日、北京(当時「北平」)郊外の盧溝橋で日軍(支那駐屯軍)と中国軍(第29軍)の武力衝突がありました。 盧溝橋(マルコポーロ・ブリッジ)は紫禁城南西に位置する苑平県城からかかる石橋です。苑平県城には中国地方政府(冀察政務委員会)の軍隊である第29軍の部隊が駐屯しており、その目前で日の支那駐屯軍は夜間演習を繰り返し実施していました。 満州事変(1931年)で東北三省に加え熱河省を奪われ、さらに長城線を超えて侵入・浸透を謀る日軍は、河北省東部に冀東防共自治政府という傀儡政府を建てて(1935年)密貿易(冀東特殊貿易)を行って華北経済を混乱させました。その結果、華北の民衆の間には反日意識が高まり、蒋介石国民政府に対して、中共討伐よりも日の侵略に対抗するべきと訴えるようになります。その状況下で西安事件(1936年)が発生し、国共合作が事実上成立するに至ります。 この西安事件

    盧溝橋事件から79年 - 誰かの妄想・はてなブログ版
  • 日中戦争における中国側犠牲者数の考察 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    こと歴史、特に近代史に関する限り、wikipediaが当てにならないのは今に始まったことではないのだが。 反中バカが、中国人犠牲者数が年々増えている、と主張している根拠(らしきもの)がこれ。 発表年 犠牲者数 調査・出典 補足 終戦時 132万 GHQ調査・発表 国民革命軍のみ 終戦時 132万 国民党政府調査・発表 国民革命軍のみ 1948年 438万 国民党政府報告書 1948年までの確認数(【注意!】この時加算された犠牲者数の中には日中戦争終戦後に勃発した国共内戦などでの犠牲者数が含まれていることに注意) 1950年代 1000万 共産党政権発表 1970年 1800万 共産党政権発表 1985年 2100万 共産党政権発表(抗日勝利40周年) これ以後 博物館や教科書で公式数字となる 1998年 3500万 江沢民発表 江沢民氏の演説で発言後、南京大虐殺記念館での公式数字となる 2

    日中戦争における中国側犠牲者数の考察 - 誰かの妄想・はてなブログ版
  • 「日中戦争」という呼称 - 日本近現代史と戦争を研究する

    多くの研究者は、当時呼ばれていた「支那事変」ではなく、「日中戦争」と呼称する*1。「支那」に替わり「中国」という呼び名が一般的になったことが一つの原因であるが、では「事変」ではなく「戦争」と呼ぶのはなぜだろうか。 1960年代の代表的な研究である、日国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』(朝日新聞社、1962-63、全8巻)は、第3・4巻を「日中戦争」上・下としているが、第4巻、23頁に次のようにある*2。 「事変」という名の全面戦争 戦争が華北から上海へ波及するにおよんでは、もはや「事変」を短期の局地紛争として収拾する可能性は失われていた。それにもかかわらず、満州事変以来なしくずし的な武力行動の積重ねの間に鈍磨した感覚は、伝統的な中国への軽侮感情とも結びついて、政府・軍部が事態の質をみぬいたうえで、適切な政策指導を打ちだすのを妨げたのであった。 数十万の大軍を送った

    「日中戦争」という呼称 - 日本近現代史と戦争を研究する
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