いまの時代、「批評」という言葉に良い印象を持っている人は少ないかもしれません。とくにネットの一部では「何も作れないくせに文句ばかりつけやがって……」と親の敵のように憎まれています。実際、批評には間違いなくそういう側面があるので、嫌われるのもいたしかたないのですが、いざ自分で書いてみると意外と楽しいものです。もしかしたら批評嫌いの人のなかにも、「べ、別に批評なんて興味ないんだからねっ!(私もちょっと書いてみたいけど、どうやって書けばいいかわからないし……)」みたいなツンデレ美少女がいるかもしれません。 そこで本記事では、かれこれ10年くらいブログや同人誌で細々とアニメ批評らしきものを書き続けている批評愛好家のひとりとして、なんとなく批評っぽく見える文章の書き方を紹介したいと思います。ただし、ぼく自身は職業批評家でもなんでもないので、「批評とは何か」「論文や感想文とどこが違うのか」といった本質
アニメ映画にもなったマンガ「聲の形」の竹内先生が好きだ。好きだというとちょっと言い過ぎかもしれないが、彼の屈折、鬱屈、環境を考えると「ただの悪役」で片づけられない。自分はそこに心を惹かれるもの、考えずにはいられないようなところがある。 この記事では、竹内先生の立場から物語を見つめることで、彼について考えてみたい。 ちなみにアニメ映画では、かなり出番が減っている。ここでいうのは主にマンガの竹内先生についてである。ただしアニメでも基本的な性格は変わっていない。 まず「聲の形」は聴覚障害を持つ少女とその周囲の人の物語だ。 竹内先生は彼女が転入してくる小学校のクラスの担任で、wikipediaを引くとこういう説明。 将也たちの担任を務める男性教師。眼鏡をかけている。障害を持つ硝子についても積極的に受け入れたわけではないようで、硝子への支援をクラスに丸投げし、障害をからかう将也の冗談を咎めようとせず
最近、Twitterでラノベ作家の自作宣伝を目にする機会が多いです。 作家に限らず、編集者やレーベルのアカウントでも作品を宣伝しています。 中には作家兼バーチャルアイドルを名乗って面白動画を投稿するアカウントも存在します。 ラノベと全然関係ない猫やトカゲといったペットの写真をツイートして、その直後に作品の宣伝ツイートをするような方法を行うアカウントも見つけました。 「1巻の売れ行きが芳しくなく、このままでは2巻が出せないです。買ってください」とはっきりアピールしている作家も見かけました。 「ファンの皆様へ。ぜひ肯定的なレビューをして、通販サイトの平均評価を挙げてほしい」と呼び掛けた例も見ました。(なお、これは通販サイトの規約違反に当たる行為です) 「売れていないのは宣伝不足」 「もっと宣伝すれば売り上げも伸びるはず」 このような理論は正しいと思いますし、作者や編集者がそう考えるのも当然だと
8名のジャッジの採点により、2回戦進出者が以下のように決定しました。 A 「アボカド」金子 玲介 B 「飼育」雛倉 さりえ C 「天の肉、地の骨」北野 勇作 D 「その愛の卵の」齋藤 優 E 「私の弟」大前 粟生 F 「遠吠え教室」蜂本 みさ G 「夏の目」吉美 駿一郎 H 「鳩の肉」齋藤 友果 ジャッジ 笠井康平、QTV、道券はな、仲俣暁生、橋本輝幸、樋口恭介、元文芸誌編集長 ブルー、帆釣木 深雪(50音順・敬称略) 2回戦組み合わせ 評詳細1)[]内は勝ち点の票数、投票者 2)数字はジャッジの採点。以下の順番。 笠井 QTV 道券 仲俣 橋本 樋口 ブルー 帆釣木 3)()内は得点数 Aグループ 「読書と人生の微分法」大滝瓶太[2票 笠樋]52443434 (29点) 「愛あるかぎり」冬乃くじ[2票 道橋]23545133(26点) 「あの大会を目指して」鵜川 龍史[2票 仲帆]334
ファイターで出るかそれともジャッジで出るか、ブンゲイファイトクラブの告知を見てまずその選択が脳裏を過ぎったが、なかなか実作の発表機会を得ないじぶんとして「おれは実作者なんだ」という自信を持ちたいがためにファイターとしての参戦を決めた。 大会経過・参加者プロフィール Aグループ Bグループ Cグループ Dグループ Eグループ Fグループ Gグループ Hグループ 1回戦総評 1回戦採点一覧 ブンゲイファイトクラブのシステムの特異さについての言及は他に譲るが、もともとインターネットがなければじぶんで創作などしなかっただろうことを振り返ると、このように一度に大勢の作品が掲載され、評されるという場は貴重だ。この世には評価の機会をえなかった作品、そもそも評価すら求めていないのに存在してしまった作品、作品とすら見なされない作品というのがたくさんある。 ぼくもまたそのような作品を書き続けてきた人間のひとり
基本的歌権や何かについては、この方のように丁寧にまとめられる方がほかに現れると思うので、私がことさらがんばってまとめる必要もないと思う(そもそも私はこのことばがどういう経緯で話題になったかといったことを追いきれていない)。 基本的歌権ということばについては、「作品の創作意図は最大限プラスの方向で汲みとられるべき」という主張だと理解している。 これはいわば、作品の背後にあると考えられる意図はその〈最善の相〉を読むべきであるという主張と相似だろう。作品のなかのことばの配置があげる効果を最大限に認めたうえで作品を批評するのは、その解釈に説得力があるかぎりにおいて、フェアな態度のあらわれだと思う。それ自体はおかしな主張ではない。問題は、いわゆる読者主義と呼ばれる立場にあっては〈最善の相〉に最適解がないために、より説得力のある深読みができていればいるほど「よい批評」として評価されてしまって、作者主義
【注:投げ銭システムなので、いちおう値段は付いてますが今なら全文無料で読めます】 とゆわけで「チェーホフの銃」と言われて黙ってられないのが新城カズマ。 M「そうなんすか?」 S「うんまあ、物語工学(の可能性)を普段から提唱してる身としては^^;」 で、ネット世間で急速に同拳銃の使用法について誤解というか語義拡張が進行中なので、以下のような寓話allegoryを考えてみました: * * * (状況設定……あるとき地球に火星人が大挙してやってきて「この惑星はもともと我々の住居で」とかノンマルトなことを言ってきたので、すったもんだあったあげくどうやら太陽系は太古の昔から地球人と火星人があちこちで雑居してたことが判明し、なんとか両種族が共存和解の道を模索し始めてから数十年後だか数百年後だかの現在——に、あなたもわたしも僕も君も住んでるってところから話は始まります) さて、あなたは地球人なのですが、
遅ばせながら、私も多くの議論を呼んだ「表現の不自由展」について語りたいと思う。しかし、私は憲法については門外漢であるし、表現の自由についての議論など、およそ語ることができない。だが、私には憲法の問題などの次元とは別の次元に、この展覧会の核心が、この議論の核心があるように思えて仕方がない。そのため、私は「表現の不自由展」について、現在行われている議論とは別の次元で語りたい。 私は「表現の不自由展」について語るために、まずロランバルトの主著『明るい部屋』に依拠しようと考えた。彼について詳しい人からすれば、曲解しているように思われるかもしれないが、それでも、私なりの解釈として理解していただきたい。彼はこの本の「狂気をとるか分別か?」という断章の中で、写真の真価としての「狂気」が、社会制度によって分別を与えられてると述べた。つまり、社会制度によって写真は分別の領域に囲い込まれ、その狂気を覆い隠され
イーヨーにとって、はじめて父親が死ぬということが、自分にもわかる問題になった、ということだったのじゃないか? 確かにイーヨーはきわめて悪かった、悪いふるまいをした、ということではあるんだけれども、と僕はしばらく考えた上で妻に話した。それでもわかりにくい部分はね、つまりイーヨーが、死んだ人間もまた帰ってくる、と考えているらしい点はね、これから注意して観察すれば、そういう考えがよってきたるところを納得できるだろうと思うよ。イーヨーは、単なる思いつきはいわないから。それに僕自身、子供の時分におなじように考えたことがあるように思うのさ。……ともかく僕が旅に出ていて、なかなか帰ってこないから、そこで僕が死んだ後へと、イーヨーの思いが行ったとして、自然なことなのじゃないか? 父親がどこか遠い所へいってしまい、かれの感情の経験としては死んだと同然で、その上ゲームとはいえ、母親まで自分を残して逃げだそうと
(約27500字) (注1)有料記事になる前に、投げ銭を頂いた方で、その後記事が読めなくなってしまった場合、ご連絡下さい。個別にテクストをお送りします。お手数をかけます。sssugita@hotmail.com (注2)この文章を大幅に加筆修正して、また北野武/ビートたけし論を加え、三本の対談座談を行って、一冊の本として『人志とたけし』(晶文社)を刊行しました。よければ手に取ってみてください。 1 以前、渋谷のシネコンで実写版『ジョジョの奇妙な冒険』を観たあと、何だか晴れ晴れとしない気分のまま、居酒屋で映画プロデューサーのK氏と雑談をしていて、積年の小さな疑念がぱっと晴れた、と感じた瞬間があった。たしか北野武の映画について話し込んでいた流れだったが、かつてお笑い芸人を目指していたというK氏は、こんなことを言ったのだ。「松本人志は天才ではありません、あの人はどこまでも普通の凡人なんですよ、杉
(小説系雑誌つまみ食い 18−−「群像」6月号、「新潮」6月号) 橋本勝也「具体的な指触り」 「群像」6月号に、群像新人文学賞評論部門の優秀作として、橋本勝也「具体的(デジタル)な指触り(キータッチ)」が掲載されている。すでに一部で話題にされているが、この評論はSF評論賞に落選したものだという。 http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/ http://www.hirokiazuma.com/blog/ 橋本は、セカイ系を批判しつつ、村上春樹の『海辺のカフカ』や『アフターダーク』を論じている。そこでは、読者が小説に対して働かせた想像力の責任が語られる。そして、読者を「キーボードの操作主体」に喩えつつ、小説中に描かれなかった救済を読者自身がプログラミングし想起すべきだという方向に論を進めていく。 この評論は、ゲームの登場人物や世界を操作するプレイヤーという立場の責任や主
佐藤葵@セリフしか読まない @srpglove htn.to/nXs3xC これ序盤だけ読めたんですが、こういう経歴の人を三人連れてきて「ラノベは文学か」なんて話させてもそりゃあ「文学じゃないです」って結論がすぐに出るでしょうし、ここからなにか価値のある方向に発展し得るのかな?と思ってしまいました。 2015-03-13 01:35:58 佐藤葵@セリフしか読まない @srpglove htn.to/nXs3xC もう一度見てみたらちゃんと変換されたので読んだんですが、なんというか、すごく……「わかりやすかった」ですね。「そこもライトノベルの特徴で、マーケティングをうまくやれば意図的にヒットを出しやすい。」うわあああああ。 2015-03-13 02:16:23
福嶋亮大 どいつもこいつもナメとんのか――、少々下品だが、これがここ数ヶ月の文壇の醜態を目の当たりにした、私の偽らざる感想である。言うまでもなく、早稲田大学教授の文芸批評家・渡部直己のセクハラ事件を端緒にした一連の騒動、および芥川賞候補作になった群像新人賞受賞作である北条裕子「美しい顔」をめぐる盗用疑惑を指してのことである。それぞれについて私見を述べる。 私はほかならぬこのRealkyotoで渡部直己とは対談したことがあり、今回の騒動の直前には彼に代打を頼まれて、福永信とのトークショー@芦屋市立美術博物館に急遽出演したくらいで、以前からかなり親しい間柄である。彼の女性遍歴についても知らないわけではないけれども(近年はそちらの方面は「卒業」したのだろうと思い込んでいた私の認識は甘かったのだが)、そこはプライヴェートな領域に関わるので触れるべきではないだろう。一般論として、男女の問題は外野には
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