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ブックマーク / diary.lylyco.com (7)

  • ある種のネト充やオタクたちは決して「リア充」にはなれない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「リア充」という言葉、案外、廃れない。 どころか、じわじわとネト充圏外へと侵攻し始めている気配すらある。それだけインターネットが一般的になったということだろう。それにしても、リアルで充実とはややこしい概念だと思う。何しろ現実を真摯に見つめれば見つめるほど、大抵、充実からは遠ざかってしまう。現実とは来、身も蓋もないものだ。だから、充実の多くは夢や幻想や妄想に担保される。コンパやサークルの虚構性など今さらいうまでもない。そこにある人間関係も性関係も、所詮は個々人が抱く幻想同士の部分的な重なりにすぎない。解り合うことはおろか、認め合うことすらほとんどできはしない。 金持ちになることにも、異性にモテることにも、長生きすることにも、教祖になることにもさしたる意味はない。すべては等しく無意味である。一方で、巨乳を見れば揉みしだきたい衝動に駆られ、木陰で放尿する幼女の姿に興奮する。満たされぬ欲望はどこ

  • オタクとギークの違いの別な見方|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    結局のところ、消費され尽くした世界は緩やかに死んでいくのだろう。 「404 Blog Not Found:オタクとギークの違い - 書評 - オタクはすでに死んでいる」で、小飼弾氏は書いている。「『オタク』は、趣味。『ギーク』は、人生。」…ずいぶんと詩的な表現だ。そしてこう続く。「それが、『需要』の差となっても現れる。」と。テレビもHDDレコーダーもiPodも家庭におけるパソコンも女子中高生の必需品たるケータイも、これらはすべて「趣味産業」に含まれる需要だろう。もっというなら、一般消費者向けの商品というのは、多く趣味的な要素を含む。インテリア、グルメ、旅行などなど趣味と実用は案外に分け難い。 いい方を変えてみる。パソコンやケータイは仕事にも使える。それは鉛筆が落書きにも仕事にも使えるのと同じである。つまり、ものによって趣味とそれ以外に分けるのは難しい。だから、ダンコーガイのいう趣味産業とい

  • 「空気」を巡る一般人の予定調和とオタクの場外乱闘|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ・なんでオタクって空気読めないコメントするの? 「ついにiMAC買ったよ、明日届く予定。超愉しみ♪」 一般人は空気を読む。「すごーい、iMac買ったんだー(≧∇≦)」「おれも欲しいなー」「( *゜▽゜)/°・:*【祝iMac】*:・°\(゜▽゜* )」「うらやまっ!」「イイネ!わたしもボーナスで買っちゃうか!」「↑買っちゃえ買っちゃえっ」「マックかわいいよね(^▽^)V」「明日届くんだー愉しみだね(V^-°)イエイ!」「いいないいなーおれも欲しいよー誰か買ってくれー(爆)」「うちもiMacだよ!仲間♪仲間♪(ちょっと前のヤツだけど…)」「わお!ついに買ったんだ、オメデトウ!」「おめでとー!!!」「いやーー!わたしもホシイーーーo(><)O O(><)o バタバタ」 オタクは空気を読まない。「s/iMAC/iMac/」「漏れも買う予定だが、2.93GHzか3.06GHzで悩み中。グラボ性能は

  • ネットはオタクの遊び場で終わってしまうのか?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    ・ 「ネットがつまらない」≒「自分がつまらない」 - シロクマの屑籠 いまどき「ネットが面白い」なんて人はまったくどうかしている。 まあ、半分くらいは好い意味で、だ。なぜなら彼らは、インターネットという社会インフラを「趣味」にしてしまった人たちだからだ。いってみれば、鉄オタにとっての鉄道みたいなものだろうか。一般人にとってのネットや鉄道は、もはや面白いとか面白くないとかいう興味の対象ではない。環境に近いものになってしまった。 もちろん、「ネットがつまらないのは自己責任!」というのも正論だと思う。そして、「ネット」の部分はあらゆるものに置き換え可能だ。ぼくが鉄道を愉しめないのは、ぼくのせいに違いない。たしかにぼくは、鉄道を愉しむための努力をしてこなかった。ネットも同じなんだとすれば、それはネットが高度に訓練されたネットオタクでなければ愉しめない、ただのありふれた風景になってしまったということ

  • 1文1,000字改行なしで最後まで読ませる馬鹿エントリー|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    断っておくけれど、この文章を最後まで読んだところで何か素敵なライフハックで目から鱗が落ちたり、斬新で効率的な仕事術が身についたり、自己啓発されてやる気が泉の如く湧き出たりすることはまずないし、そもそも特段の業績も持たないような一介のウェブデザイナーにすぎないぼくがそんな気の利いたエントリーをものせるはずもないのだから、こればかりは期待する方がどうかしているわけだけれども、かといってぼくとて一片の意味もない文章をわざわざ一千字も書くほど暇ではないのだし、書く以上は何らかの主張や愉しみを織り込むつもりだったことはいうまでもなく、当然、この文章にこそ相応しい内容を念頭に書き始めたわけだけれど、いい加減前振りが長すぎてこのままの調子で書いていては論に入る前に紙幅が尽きかねないので、些か唐突ながら稿のテーマを掲げると、それは「読み易い文章とはいかにあるべきか」というぼくにとっては積年の懸案事項で

  • 下手な文章というのはあるが、上手い文章というのはない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    一般的な意味で上手い文章というのは、たぶん、ない。 ・俺なりの「文章うまくなる方法」 - G.A.W. ・「いいなぁ」という文章に近づくために必要なこと - GoTheDistance あるのはただ誰かや何かに合った文章である。似たようなことを少し前にも書いたなと思ったら、偉そうに文章術のようなものを書いていた。若気の至りである。先月のぼくはあまりに若かった。後悔は、それほどしていない。文章を公に晒すというのは、そういうことだと思っている。それはまあいい。上手い文章の話である。タイトルにも書いたけれど、下手な文章というのはあると思う。誤字脱字が酷いとか、誤謬に塗れているとか、人以外には何が書いてあるのか解らないとか、そういったものである。要するに、文章の体をなしていない。それは下手といっていいと思う。 文章として特段の瑕疵がない。言葉遣いは正しく文意も通っている。そういう文章なら、言葉を

  • 文体を意識して書く愉しみを身につける方法|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    文章で何かを伝えたい。ならば、文体は重要だ…と素人が力説してみる。 文体に無頓着。それは文章の愉しみの大方を放棄しているに等しい。何をどう書くか。或いは、描くか。それは書く愉しみの大きな一面だろう。文体を意識するということは語彙を意識し、語尾を意識し、文の長短を意識し、漢字や仮名の表記を意識することだ。それはつまり、リズムを選ぶことであり、キャラクターを選ぶことであり、ターゲットを選ぶことでもある。であれば、何を伝えたいか、誰に伝えたいかによって、文体は戦略的に選ばれるべきである。何も意識せずに紡がれた文章は、自らの思考のリズムと、自分という茫洋としたキャラクターと、無意識の自分という極めて限定的なターゲットに縛られてしまう。当然、「自分のためだけの文章」にしかなり得ない。 伝えたい内容についてよく知らない人たちに、まずは興味を持ってもらいたい。広く浅くでもいいから、とにかく自分の知識を伝

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