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ブックマーク / hokusyu.hatenablog.com (14)

  • 「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ - hokusyu’s blog

    まず事実として、陵辱ゲームの根底には、社会になお存在する性暴力の非対称性と差別的な意識があるということについて疑うことはできないでしょう。そのことをふまえて想像すれば、たとえば「黒人だけを撃ち殺すゲーム」は当然規制の対象になるでしょうが、「ゲームの黒人は現実の黒人と違うからいいんだ」とか、「オレはリアルでの差別はひかえるけど自然と湧き上がるこの差別感情は否定できないからせめてゲームで差別させてくれ」という理屈が通用するかといえばしないと思います。個人あるいはきわめてクローズドなサークルでやる分にはともかく(規制のしようがない)、少なくとも市場の流通には乗せられない。「黒人差別ゲームがなくなったからといって黒人差別がなくなるわけではない」という意見はある意味ではそのとおりでしょう。しかしやはりゲームは規制されると思います。 難しいのはもちろん、陵辱ゲームにおける性差別的な価値意識は、黒人殺し

    「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ - hokusyu’s blog
  • 国家/内戦/シン・ゴジラ - 過ぎ去ろうとしない過去

    地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた ――ヨブ記41.33 近代国家を聖書に出てくる大怪獣リヴァイアサンに喩えたのはホッブズであった。ホッブズによれば、人間の自然状態は万人の万人に対する闘争であり、そこに安息は無い。従って人間たちは自らの権利を国家へと委譲する契約を結び、国家の保護を得る。保護と服従の関係が、国家と国民の関係を規定する。国家はその領域において唯一の主権的共同体である。 カール・シュミットは、『政治的なものの概念』において、国際社会を複数のリヴァイアサンが競合する多元的な空間として考えている。国際間においては、国家の国民に対する保護は、他の国家からの保護でもある。むしろ国民は他の国民に対抗するために国家をつくる。国民の結集は、「政治的なもの」によって行われる。つまり、友と敵の存在論的な区別によって行われる。国家の主権者は、政治の概念に即して、国家の敵を正

    国家/内戦/シン・ゴジラ - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 弾圧と大衆運動 - 過ぎ去ろうとしない過去

    5月28日、経済産業省の前で抗議行動を行っていた3名が、警察によって不当にも逮捕された。ある公官庁が関わる社会問題に対して市民が当該官庁の前で直接抗議を行うことは、憲法により保障された市民的権利の一部であるし、その際、抗議者が敷地の境界線を超えたかどうかという些細な事実は*1、市民の身体的自由を侵害するに足る正当な理由にはあたらないことは明白である。これは政治弾圧である。 したがって、このような極めて深刻な市民的権利の侵害に対して、救援会を中心に多くの人々が不当な逮捕を行った当局に対して抗議を行い、逮捕された3名の支援に尽力しているのは当然である。ところが、それにも関わらず、あろうことか弾圧の被害者である逮捕された3名に対してバッシングを行う市民も一定数いるのである。当局がやることなすことすべて正当化し、政治的な抵抗者を嘲笑する権力の犬と呼ぶしかない人々についてはもはや論ずることはない。問

    弾圧と大衆運動 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論 - 過ぎ去ろうとしない過去

    ―女は聖母になる。そして同時に魔女にも。 ―カール・シュミット 魔法少女の運命、すなわち罪と罰のエコノミーに対して、純粋なる暴力がふるわれた。罪はまどかによって引き受けられた(annehmen)。それによってあらゆる罪は贖われた。つまり、あらゆる時間の魔法少女は、常にすでに救済されることになったのである――しかし、ほむらは自身のソウル・ジェムを自ら砕き、魔女となる。彼女は救済を拒む。「円環の理」の救済を。 なぜ?我々は今や新たな考察をくわえる必要に迫られている。ほむらの「叛逆」とは何か。そのためには、「叛逆」の対象、「円環の理」とは何かを明らかにしなければならない。過去と未来を超越する”Jetztzeit”の概念も、時間(Zeit)の概念、すなわち過去と未来の概念を、その語の内に指示している。だが、今や時間は消失した。なんとなれば、時間の両端が結ばれてしまったのである。つまり、「円環」とし

    円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論 - 過ぎ去ろうとしない過去
    shimomurayoshiko
    shimomurayoshiko 2013/12/12
    「エヴァの呪縛」「考え過ぎ」「懐かしい」「目が泳ぐ」「ソーカル論文」
  • 過ぎ去ろうとしない過去-阿片窟で初音ミクを愛でる阿片中毒者たち

    なんとなくアップしてみた。 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20071025の続きです。 大分日がたってしまって、もう初音ミク論も下火っぽいのですが、前の日記にいろいろとコメントなどを頂きましたので、答えなければいけないと思いました。なんかセンテンスごとにコメントがついてるのですけども、一応アレは元ネタに準拠して(?)、全体でひとまとまりなので、細切れに聞かれても答えるのが難しかったりするのですが、うーむ。 まあ、そもそもなぜアレを書かなければいけなかったか、という理由を説明すると、つまり、初音ミクに対して、「機械のヴォーカルなんてどう考えても人間に対する最大の疎外だろ」という、発せられて当然の問いが、あまりにも無視されすぎている、というのがあったからです。まあ恐らく、「時代の最先端をリードする我々オタク様に投げかけるには、あまりにも古すぎる問いだ」という理由に

    過ぎ去ろうとしない過去-阿片窟で初音ミクを愛でる阿片中毒者たち
  • 初音ミク時代の芸術作品 - 過ぎ去ろうとしない過去

    人間が器械装置によって代理されることで、人間の自己疎外は、きわめて生産的に利用されることになった ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」 初音ミクについて考えてみるとき、やはりそれは複製技術の進歩がもたらした表現形式であることを考慮せざるをえない。技術自体が問題になっているのでは無い。新しく画期的な技術は、毎日世界中で誕生しているのである。重要なのは、まさにその技術がどのような表現を可能にしたかなのである。複製技術による表現形式は当然初音ミクが最初ではない。たとえば舞台に対して映画は複製技術の産物である。舞台俳優と彼の人格が切り離せないのに対して、映画俳優は彼の人格から追放される。舞台俳優が役の中に没入できるのに対して、映画俳優は大衆の前に晒されざるを得ない。つまり映画俳優は――これを、(大衆音楽における意味での)ヴォーカリストや声優に置き換えても構わないが――器械装置の前で演技

    初音ミク時代の芸術作品 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「一般意志」とは何か - 過ぎ去ろうとしない過去

    紙屋研究所の紙屋氏が東浩紀の「一般意志2.0」をdisっているのだけれど、何か質を外している気がします。 ■架空インタビュー2.0 『一般意志2.0』ふたたび http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20120306/1331001376 特に違和感をもったのが、「差異の総和」について書いている部分。 ――「差異の和」のくだりですね。 そうです。岩波文庫の桑原・前川訳の方で紹介します。 これらの特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる。(岩波版p.47) この最後の部分「相違の総和として、一般意志がのこることになる」は、フランス語の原文では「reste pour somme des différences la volonté générale.」となるので、東訳よりも桑原・前川訳の方がいいと思いますね。 こ

    「一般意志」とは何か - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 弔いと生政治 - 過ぎ去ろうとしない過去

    関西で行われている反原発デモのひとつに、「葬送デモ」なるものがあるらしい。福島において被曝による被害が近い将来多発するであろうことを、「葬送」という形で可視化し、問題提起を行うというコンセプトのデモのようだ。 このデモについては、ネットを中心に賛否両論が巻き起こっている。批判の中心は、やはりそれが「不謹慎」であるということだ。福島に住んでいる人たちをあたかも棺桶にいれるかのようなデモは、当地の人々を傷つけるのではないか? このような批判に対して、主催の一人であるS氏が応答を行っている。 http://nonuke-savelife.tumblr.com/post/12855881354 この文章でS氏は、葬送デモが不謹慎である可能性、誰かを傷つける可能性があるかといえばあると認めている。しかし、だからといってこの表現はなされるべきではなかったということにはならない。わたしたちは放射能に対し

    弔いと生政治 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「反戦と抵抗のフェスタ2011 がんばらないよ!ニッポン」に賛同します - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://d.hatena.ne.jp/KYfesta2011/20111013/1318517161 反戦と抵抗のフェスタ2011 がんばらないよ!ニッポン お上も下々も、右も左も「がんばろう」? 「日はひとつ」じゃない! ずっと異常事態だったでしょ? 3.11にはじまったことじゃない! 日時 11月23日(水・休日) 12時30開場 13時00分開会 20時閉会予定 場所 千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅徒歩10分) http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_sendagaya.html 資料代 500円 【実行委員会への参加者募集!】 ※ お問い合わせは→ war_resisters_fes11 あっとまーく yahoo.co.jp 《基調よびかけ》 「脱原発」「エネシフト」、けっこうもりあがってる。 でも、廃炉になれば一件落

    「反戦と抵抗のフェスタ2011 がんばらないよ!ニッポン」に賛同します - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 「残酷な現実」の内面化、あるいはオメラスの発掘 - hokusyu’s blog

    もちろんトリアージを拡大解釈するなってことは大事なんでしょうけど、どうして人はトリアージみたいなものを拡大解釈したがって、しかもそういうエントリには賛同ブコメがいっぱいつくんだろうってのも大事では。いや、「誰かを切り捨てなければ誰かを助けることはできない」っていうのが、彼の中で事実(Wirklichkeit)を通り越して真理(Wahrheit)にまで達しちゃってる人っていますよねっていう話なのですが。 http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200308.html#02 なぜこんなに「月宮あゆが助かる〜」という考えを僕が憎むかというと、「誰かが助かることで、他の人は助からない」という考えというのが、ある種の奇妙な「社会性」みたいなものを他人に押し付けるために使われることが多いからなのかも。 倫理的な問題を考えるときに、「思考実験を構成して、選択肢のどれを選ぶかについ

    「残酷な現実」の内面化、あるいはオメラスの発掘 - hokusyu’s blog
  • <剥き出しの生>と非常事態 - 過ぎ去ろうとしない過去

    3月11日の夜、菅直人首相は大震災の発生後、初めての首相会見を開いた。わたしはそれをテレビで見ていたのだが、強烈な違和感をもったことを覚えている。会見の内容自体は、震災直後に首相が発するコメントとしては無難なものだったと思う。問題は、その呼びかけ対象である。かれは、終始「国民」ということばを使っていた。「住民」でも「市民」でも、いろいろ選びようがあったはずなのに、である。少なくとも、東北地方に一人の外国人もいないなんてことはありえない。ぼくはそのうち外国人へのフォローがあるのだろうと見ていたのだが、結局最後までかれは、「国民」に呼びかけるのみで、それ以外のことばは一度も用いられなかった。 菅首相のコメントに呼応するかのように、次の日からあらゆるマスメディアでは「国民」あるいは「日」の文字がおどった。東北地方で起きた大震災および津波の被害は、何の留保もなく「(日)国民の危機」と同一視され

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  • 6.11新宿中央公園を中心とする経緯の確認 - 過ぎ去ろうとしない過去

    なぜ針谷氏が登壇すべきでなかったのかについては会のブログ内において何度も詳しく明快に書いてあるので、ここで繰り返し書くことはしません。わかるまで熟読してください。 ただし、問題意識を共有するしない以前に、経緯の認識が「なんでそうなるの!?」というものばかりで、非生産的な議論を生んでいる原因の一端はそこにあると思うので、関係者のひとりとして経緯にたいする見解をちゃんと書いておきます。 経緯に対する典型的なまちがいは、次のブログにあらわれています。 ■ヘイトスピーチに反対する会の行動を支持しません http://d.hatena.ne.jp/fut573/20110619/1308487730 まず、常野さんの発言もぼくの発言も、会としての声明ではなく、6/9の時点の個人的な声明です。これに問題があると感じたならば、常野あるいは北守を批判すればいい話であって、会とこれらの発言を直接結びつけるの

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  • まどかの救済――あるいは背中のまがったこびとの話 - 過ぎ去ろうとしない過去

    2月のエントリ「約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論」は、編があのような結末をむかえたこともあって、大きな反響を呼んだ。もちろん、あのエントリは予測でも願望でもなく、魔法少女の理念をただ著しただけにすぎない。しかし、内心の予想以上にあのエントリとぴったりくる結末だったのをみて、人が一番驚いているとともに、ベンヤミンと『まどか☆マギカ』の相性はよいということを、ますます確信するに至った。 ところで、人気番組終了の常なのだが、最終回以後、様々な感想がネット上に飛び交っている。満足した者、満足してない者、それぞれいるだろう。あの結末は納得がいかない、という人がいるのはあたりまえのことである。ひとにはそれぞれ価値基準があるのだから。しかし、あのわかりやすい最終回を見て、なお見当違いな解釈をおこなっている人びとも多く見られる。それはたぶんにドグマ的であり、「誰かが幸福になるには誰か

    まどかの救済――あるいは背中のまがったこびとの話 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論 - 過ぎ去ろうとしない過去

    今、魔法少女―変身ヒロインとしての―概念は危機に晒されている。『魔法少女まどか☆マギカ』に群がるキモヲタとサブカル評論家たちは、魔法少女概念を蹂躙し、ずたずたに引き裂こうとしているのだ。それが最終回を迎える4月ごろには既に、この王国には荒れ果てた大地しか残されていないだろう。われわれは簒奪者たちの手から魔法少女概念を救出しなければならない。それも、正しい魔法少女概念を、である。そのためには、『まどか☆マギカ』の正しい批評が必要なのである。それは、政治的な批評でなければいけない。実証主義の良心は認めなければいけない。だが、啓蒙的な実証主義は、悪意に満ちた大衆の前では無力である。かといってわたしは、大衆向きにアレンジされた世俗的な神話体系のひとつであるところの、魔法少女概念の「偽史」を構築しようと欲するものでもない。それは自己欺瞞であり、批評のための批評にすぎない。重要なのは理念であり、理念に

    約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論 - 過ぎ去ろうとしない過去
    shimomurayoshiko
    shimomurayoshiko 2011/02/25
    という考察
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