篇外余録に関するshiromitsuのブックマーク (3)

  • 吉川『三国志』の考察 篇外余録(3)「魏から――晋まで(ぎから――しんまで)」

    視点を魏(ぎ)に転じ、もうひとつの落日賦(らくじつふ)を描いた篇外余録の3話目。 蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)のたび重なる侵攻を防ぎきった魏の曹叡(そうえい)だったが、3代目のお約束にはまってしまう……。 篇外余録(3)の全文とポイント (01)三国、晋(しん)一国となる 孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)の歿後(ぼつご)、魏は初めて、枕を高うして眠ることを得た。年々の外患もいつか忘れ、横溢(おういつ)する朝野の平和気分は、自然、反動的な華美享楽となって現れだした。 この兆候は、下よりまず上から先に出た。大魏皇帝の名をもって起工された洛陽(らくよう)の大土木の如きがその著しいものである。朝陽殿(ちょうようでん)、大極殿(たいきょくでん)、総章観(そうしょうかん)などが造営された。 また、これらの高楼、大閣のほかに、崇華園(すうかえん)、青宵院(せいしょういん)、鳳凰楼(ほうおうろう

    吉川『三国志』の考察 篇外余録(3)「魏から――晋まで(ぎから――しんまで)」
  • 吉川『三国志』の考察 篇外余録(2)「後蜀三十年(ごしょくさんじゅうねん)」

    諸葛亮(しょかつりょう)亡き後、蜀(しょく)が急速にしぼんでいくさまを描いた篇外余録の2話目。 蜀にとって諸葛亮がどのような存在だったのか、痛いほど伝わってくる……。 篇外余録(2)の全文とポイント (01)孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)の没後、破滅したふたりと蜀を支えたふたり 孔明なき後の、蜀30年の略史を記しておく。 いったい、ここまでの蜀は、ほとんど孔明一人がその国運を担っていたといっても過言でない状態にあったので、彼の死は、即ち蜀の終りといえないこともない。 しかし、それは孔明自身が、以(もっ)て大いに、自己の不忠なりとし、またひそかなる憂いとしていた所でもある。従って、自身の死後の備えには、心の届くかぎりのことを、その遺言にも遺風にも尽してある。 以後、なお蜀帝国が、30年の長きを保っていたというも、偏(ひとえ)に、「死してもなお死せざる孔明の護り」が内治外防の上にあったからに

    吉川『三国志』の考察 篇外余録(2)「後蜀三十年(ごしょくさんじゅうねん)」
  • 吉川『三国志』の考察 篇外余録(1)「諸葛菜(しょかつさい)」

    吉川『三国志』の著者である吉川英治(よしかわ・えいじ)先生の三国志観から、諸葛菜(しょかつさい)と呼ばれ、現代でもべられているという蕪(かぶ。蔓菁〈まんせい〉ともある)の逸話までが語られた篇外余録の1話目。 吉川先生が、諸葛亮(しょかつりょう)の死をもって編の幕引きとした理由が興味深い。 篇外余録(1)の全文とポイント (01)吉川先生の三国志観 三国鼎立(ていりつ)の大勢は、ときの治乱が起した大陸分権の自然な風雲作用でもあったが、その創意はもともと諸葛孔明(しょかつこうめい。孔明は諸葛亮のあざな)という一人物の胸底から生れ出たものであることは何としても否みがたい。 まだ27歳でしかなかった青年孔明が、農耕の余閑、草廬(そうろ)に抱いていた理想の実現であったのである。 時に、三顧して迎えた劉玄徳(りゅうげんとく。玄徳は劉備〈りゅうび〉のあざな)の奨意にこたえ、いよいよ廬を出て起たんと誓

    吉川『三国志』の考察 篇外余録(1)「諸葛菜(しょかつさい)」
  • 1