呉に関するshiromitsuのブックマーク (282)

  • 呂壱(りょいつ)

    【姓名】 呂壱(りょいつ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~238年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫権(そんけん)の寵愛を背景に、呉(ご)の重臣を数多く陥れる 父母ともに不詳。 呂壱は、孫権の下で中書典校(ちゅうしょてんこう)として文書や行政全般を監督したが、職務で知り得た情報を悪用し、数多くの重臣を弾劾した。 ★呂壱が中書典校を務めるまでの経緯や、なぜ孫権に寵愛されていたかに関する記事はなかった。 見かねた皇太子の孫登(そんとう)が、呂壱の重用をやめるよう諫めても、孫権は聞き入れようとしない。 驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の歩騭(ほしつ)や太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)らも、たびたび呂壱の悪辣さを訴えたが、やはり孫権に容れられなかった。 238年、羊衜(ようどう)らに見いだされて郎(ろう)に取り立てられた李衡(りこう)が

    呂壱(りょいつ)
    shiromitsu
    shiromitsu 2023/04/01
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 留平(りゅうへい)

    【姓名】 留平(りゅうへい) 【あざな】 ? 【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)長山県(ちょうざんけん) 【生没】 ?~272年?(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場人物。 幻に終わった孫晧(そんこう)廃位計画のキーパーソン 父は留賛(りゅうさん)だが、母は不詳。留略(りゅうりゃく)という兄がいた。 263年10月、孫休(そんきゅう)のもとに知らせが届き、蜀(しょく)が魏(ぎ)の攻撃を受けていることが判明する。 そこで孫休は、大将軍(だいしょうぐん)の丁奉(ていほう)を魏の寿春(じゅしゅん)へ向かわせた。 このとき将軍(征西将軍〈せいせいしょうぐん〉か?)の留平も命を受け、南郡(なんぐん)にいた施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)のもとへ赴く。 さらに、将軍の丁封(ていほう)と孫異(そんい)が沔中(べんちゅう。漢水〈かんすい〉流域)へ軍勢を進めた。 こう

    留平(りゅうへい)
    shiromitsu
    shiromitsu 2023/03/04
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 留賛(りゅうさん) ※あざなは正明(せいめい)

    【姓名】 留賛(りゅうさん) 【あざな】 正明(せいめい) 【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)長山県(ちょうざんけん) 【生没】 183~255年(73歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第108回で初登場。 【正史】 登場人物。 大けがをした脚に、自ら荒療治を施す 父母ともに不詳。留略(りゅうりゃく)と留平(りゅうへい)という息子がいた。 留賛は若いころ郡吏になり、黄巾賊(こうきんぞく)の残党の呉桓(ごかん)と戦って首級を挙げる。だがこのときに大けがをし、片方の脚をまっすぐ伸ばせなくなった。 それでも留賛は、脚の不自由さにかこつけてくすぶり続けることをよしとせず、親族の反対を押し切って自分の脚に刃物を入れ、筋を切って脚を引き伸ばす。 傷が治ると、留賛は脚を引きずりながらではあるものの、歩けるようになった。 この話を聞いた凌統(りょうとう)の推薦により、留賛は官に試用される機会を得る。こう

    留賛(りゅうさん) ※あざなは正明(せいめい)
    shiromitsu
    shiromitsu 2023/02/04
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 李仁(りじん)B ※呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の侍中(じちゅう)

    【姓名】 李仁(りじん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫晧(そんこう)の行いに非難すべきところはなし 父母ともに不詳。 孫晧は群臣を集めて酒宴を開くとき、いつも皆が酔いつぶれるまで飲ませた。 その際は、10名の黄門郎(こうもんろう)を選んで宴席に立たせておき、群臣に過ちを犯す者がいないか監視させた。 こうしておいて、大きな過失があった者をその場で厳刑に処し、小さな過失があった者にも必ず罰を与えた。 また、孫晧の後宮には数千人の宮女がいたが、新たに宮女を選んでは後宮へ入れることをやめなかった。 このころ宮中に川が引かれていたが、孫晧は意に沿わぬ者を見つけては殺害し、その川に流したという。ほかにも孫晧は顔の皮を剝がせたり、眼をえぐらせたりもした。 李仁は孫晧の下で侍中(じちゅう)を務めていたが、28

    李仁(りじん)B ※呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の侍中(じちゅう)
    shiromitsu
    shiromitsu 2023/01/07
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 李衡(りこう) ※あざなは叔平(しゅくへい)

    【姓名】 李衡(りこう) 【あざな】 叔平(しゅくへい) 【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 いじめた皇子が皇帝に 父母ともに不詳。は習氏(しゅうし)。 李衡は襄陽の兵士の家に生まれ、後漢末(ごかんまつ。220年ごろ)に呉(ご)に移住して武昌(ぶしょう)の庶民となる。 羊衜(ようどう)らに見いだされて郎(ろう)に取り立てられると、李衡は、権力を笠に着て悪行を重ねる呂壱(りょいつ)を厳しく糾弾し、ついに呂壱は誅殺された。 ★呂壱が誅殺されたのは238年のこと。 それから李衡は諸葛恪(しょかつかく)の司馬(しば)を長く務め、幕府の諸事を取り仕切るまでになる。 252年、孫権(そんけん)が崩じて孫亮(そんりょう)が帝位に即くと、諸葛恪が実権を握る。 諸葛恪は、帝族が長江(ちょうこう)沿いの軍事的な要地

    李衡(りこう) ※あざなは叔平(しゅくへい)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/12/03
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 雍闓(ようかい)

    【姓名】 雍闓(ようかい) 【あざな】 ? 【原籍】 益州郡(えきしゅうぐん) 【生没】 ?~225年(?歳) 【吉川】 第263話で初登場。 【演義】 第086回で初登場。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)と結んで蜀(しょく)の支配に抵抗 父母ともに不詳。雍歯(ようし)の末裔(まつえい)ともいう。 ★雍歯は漢(かん)の汁防粛侯(じゅうぼうしゅくこう)。『漢書(かんじょ)』(高恵高后文功臣表〈こうけいこうこうぶんこうしんひょう〉)には、趙(ちょう)の将軍として高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)に後れて従い、諸侯の平定に功績があったと記されている。 雍闓は益州郡の豪族だったが、蜀の支配に不満を抱いていた。そこで、223年に劉備(りゅうび)が崩ずる前に反旗を翻す。 牂牁太守(そうかたいしゅ)の朱褒(しゅほう)や越嶲(えっすい)の異民族の王である高定(こうてい)も、雍闓の動きに続

    雍闓(ようかい)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/11/05
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 楊竺(ようじく)

    【姓名】 楊竺(ようじく) 【あざな】 ? 【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん) 【生没】 ?~250年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 「二宮の変」の首謀者 父母ともに不詳。楊穆(ようぼく)という兄がいた。 242年、前年に皇太子の孫登(そんとう)が薨(こう)じたことに伴い、孫権(そんけん)は新たに孫和(そんか)を立てる。 だが、孫権は孫和の弟である孫霸(そんは)を魯王(ろおう)に封じ、ふたりを同等に扱ったため、ほどなく兄弟の間がしっくりいかなくなった。 この暗闘は兄弟に仕える重臣たちも巻き込む形で激化し、後に「二宮の変」と呼ばれる派閥争いに発展する。 陸遜(りくそん)・吾粲(ごさん)・顧譚(こたん)らは、嫡子と庶子との区別を明確にするよう求めて皇太子の孫和を支持した。 一方で楊竺は、全寄(ぜんき)らと結託して孫霸を守り立て、孫和の地位を危うくする

    楊竺(ようじく)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/10/01
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉) ※あざなは恭武(きょうぶ)

    【姓名】 孟仁(もうじん) 【あざな】 恭武(きょうぶ) 【原籍】 江夏郡(こうかぐん) 【生没】 ?~271年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。 天が認めた篤い孝心 父母ともに不詳。 もともと孟仁は孟宗(もうそう)という名だったが、孫晧(そんこう)のあざなの元宗(げんそう)を避けて孟仁と改めた(時期は不明。孫晧の即位〈264年〉後のはず)。 孟宗は、若いころ南陽(なんよう)の李粛(りしゅく)の下で学問に励む。母は息子のために、分厚い敷布団と大きな掛け布団を作ってやった。 その心を尋ねる者がいると、母は、息子には人を惹(ひ)きつけるほどの徳がないからと謙遜しつつ、学問を志す方々は貧しいことが多いので、大きな布団があれば、そういった同志の方々と仲良くなれるのではないかと応えた。 やがて李粛に才能を認められ、孟宗は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)

    孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉) ※あざなは恭武(きょうぶ)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/09/03
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 馮熙(ふうき) ※あざなは子柔(しじゅう)

    【姓名】 馮熙(ふうき) 【あざな】 子柔(しじゅう) 【原籍】 潁川郡(えいせんぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫権(そんけん)への節義を貫き通す 父母ともに不詳。馮異(ふうい。後漢〈ごかん〉の光武帝〈こうぶてい。在位25~57年〉に仕えた功臣)の子孫。 馮熙は孫権が車騎将軍(しゃきしょうぐん)だったとき、東曹掾(とうそうえん)を務めた。 ★孫権が漢(かん)の車騎将軍に任ぜられたのは209年のことで、219年に驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・仮節(かせつ)に任ぜられた。さらに荊州牧(けいしゅうぼく)を兼ねたうえ、南昌侯(なんしょうこう)に封ぜられた。 223年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が崩ずると、立信校尉(りっしんこうい)の馮熙は孫権の命を受け、弔意を述べる使者として遣わされる。そして帰国後に中大夫(ちゅうたいふ

    馮熙(ふうき) ※あざなは子柔(しじゅう)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/08/06
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 麋芳(びほう) ※あざなは子方(しほう)

    【姓名】 麋芳(びほう) 【あざな】 子方(しほう) 【原籍】 東海郡(とうかいぐん)胊県(くけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第071話で初登場。 【演義】 第018回で初登場。 【正史】 登場人物。 南郡(なんぐん)を挙げて孫権(そんけん)に降り、兄を憤死に追いやる 父母ともに不詳。麋竺(びじく)は兄で、劉備(りゅうび)に嫁いだ妹もいた。 麋芳の家は徐州(じょしゅう)の大富豪で、麋竺ともども徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙(とうけん)に仕えていた。 194年、陶謙が死去すると遺命により、小沛(しょうはい)にいた劉備が徐州牧を引き継ぐ。麋芳は麋竺とともに劉備に仕えることになった。 196年、呂布(りょふ)に敗れた劉備は徐州を離れ、曹操(そうそう)を頼って許都(きょと)へ逃れる。 このとき曹操の上表により、麋竺は嬴郡太守(えいぐんたいしゅ)に、麋芳は彭城国相(ほうじょうこくしょう

    麋芳(びほう) ※あざなは子方(しほう)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/07/02
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 万彧(ばんいく)

    【姓名】 万彧(ばんいく) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~272年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場人物。 己の栄達をもくろみ、孫晧(そんこう)の即位に暗躍 父母ともに不詳。 264年7月、孫休(そんきゅう)が崩ずると、左典軍(さてんぐん)の万彧は、かつて烏程県令(うていけんれい)を務めたときに親密になった孫晧の即位を画策する。 これまでも万彧は、丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)や左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)に、孫晧の見識と人柄の素晴らしさを熱心に吹き込んでいだ。 ★孫晧は、258年10月に孫休から烏程侯(うていこう)に封ぜられており、万彧は任地で孫晧と親しくなった。 同年8月、孫晧が帝位に即いたものの、ほどなく濮陽興と張布は彼の行いを見るにつけ、帝位に迎えたことを悔やみ始める。万彧は、さっそくこの件を讒言(

    万彧(ばんいく)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/06/04
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 鄭泉(ていせん) ※あざなは文淵(ぶんえん)

    【姓名】 鄭泉(ていせん) 【あざな】 文淵(ぶんえん) 【原籍】 陳郡(ちんぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 酒壺(しゅこ)に生まれ変わりたいと願った学者 父母ともに不詳。 鄭泉は学識や志を見込まれ、孫権(そんけん)の下で議郎(ぎろう)を務める。 222年12月、太中大夫(たいちゅうたいふ)の鄭泉は孫権の使者として蜀(しょく)へ向かい、白帝(はくてい)で劉備(りゅうび)に面会した。このことで呉(ご)と蜀は友好関係を回復させることができたという。 だが、その後の鄭泉については記事がない。 また鄭泉は大変な酒好きで、自分が死んだら陶器職人の家のそばに葬ってほしいと遺言したという。 その心は、そうしてもらえば、やがて遺骸が土に還り、酒壺として生まれ変わることもできようというものだった。 管理人「かぶらがわ」より 上で挙げた記事

    鄭泉(ていせん) ※あざなは文淵(ぶんえん)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/05/07
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 丁覧(ていらん) ※あざなは孝連(こうれん)

    【姓名】 丁覧(ていらん) 【あざな】 孝連(こうれん) 【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)山陰県(さんいんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 虞翻(ぐはん)の後押しを受けるも、孫権(そんけん)の抜てき前に病死 父母ともに不詳。丁固(ていこ。丁密〈ていみつ〉)という息子がいた。 丁覧は8歳で父を亡くし、有力な後ろ盾も持たなかったが、清廉かつ慎重な性格だった。また、財産を従弟に譲ったことから人々の称賛を得た。 やがて丁覧は郡に仕えて功曹(こうそう)まで昇進し、後に始平県長(しへいけんちょう)に転ずる。 虞翻に人柄を評価されて友人の交わりを結ぶと、その助力もあり、丁覧の名は広く知られるようになった。 孫権も丁覧に大きな期待を寄せていたが、まだ抜てきしないうちに病死(時期は不明)してしまった。 孫権は丁覧の死を惜しみ、彼の一族に特別

    丁覧(ていらん) ※あざなは孝連(こうれん)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/04/02
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 丁固(ていこ。丁密〈ていみつ〉) ※あざなは子賤(しせん)

    【姓名】 丁固(ていこ) 【あざな】 子賤(しせん) 【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)山陰県(さんいんけん) 【生没】 198~273年(76歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 困難な状況下で培った徳をたたえられ、司徒(しと)まで昇る 父は丁覧(ていらん)だが、母は不詳。丁彌(ていび)という息子がいた。 丁密(ていみつ)は若いころに父を亡くし、母とふたりで暮らす。家は貧しかったが孝養を尽くし、身寄りのない同族の年少者たちの面倒も見た。 242年、皇太子の孫和(そんか)と魯王(ろおう)の孫霸(そんは)との間で「二宮の変(孫和派と孫霸派による確執)」が起こると、尚書(しょうしょ)の丁密は礼に従って孫和を支持した。 257年、鄱陽(はよう)および新都(しんと)の両郡で孫亮(そんりょう)に対する反乱が起こると、廷尉(ていい)の丁密は将軍の鍾離牧(しょうりぼく)や

    丁固(ていこ。丁密〈ていみつ〉) ※あざなは子賤(しせん)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/03/05
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 陳化(ちんか) ※あざなは元耀(げんよう)

    【姓名】 陳化(ちんか) 【あざな】 元耀(げんよう) 【原籍】 汝南郡(じょなんぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)の曹丕(そうひ)をうならせた弁舌の士 父母ともに不詳。陳熾(ちんし)という息子がいた。 陳化は幅広い分野の書物を読み、気概と才幹を備え、剛毅な性格だった。加えて身長が7尺(せき)9寸もあり、そのたたずまいから典雅さや威風が感じられたという。 陳化が郎中令(ろうちゅうれい)として魏に使いした折、酔った曹丕が嘲笑を含んでこう尋ねる。 「いま呉(ご)と魏が対峙(たいじ)しているが、天下を統一するのはどちらであろうか?」 すると陳化は『易経(えききょう)』を引き、偉大な先人たちがみな、天子(てんし)の運気は東南(つまり呉)にあるとおっしゃっている、とやり返した。 さらに曹丕が言う。 「むかし周(しゅう)の文王

    陳化(ちんか) ※あざなは元耀(げんよう)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/02/05
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 趙咨(ちょうし)B ※あざなは徳度(とくたく)

    【姓名】 趙咨(ちょうし) 【あざな】 徳度(とくたく) 【原籍】 南陽郡(なんようぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第250話で初登場。 【演義】 第082回で初登場。 【正史】 登場人物。 堂々たる使者ぶりで主君の面目を保つ 父母ともに不詳。 趙咨は博聞多識でその名を知られ、人との応対も巧みだった。 221年、孫権(そんけん)が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられると、都尉(とい)の趙咨は答礼の使者として魏へ遣わされた。 このとき曹丕に孫権の人となりを尋ねられた趙咨は、わが主は聡明にして、仁智と雄略とを兼ね備えたお方だと答える。 いくらか面らった曹丕が、もう少し具体的に説明するよう求めると、趙咨はそれぞれ例を挙げて大いに語った。 魯粛(ろしゅく)を民間から起用されたことは、その「聡」である。呂蒙(りょもう)を兵士から抜てきされたことは、その「明」である。

    趙咨(ちょうし)B ※あざなは徳度(とくたく)
    shiromitsu
    shiromitsu 2022/01/01
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 張布(ちょうふ)

    【姓名】 張布(ちょうふ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~264年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。 孫休(そんきゅう)の寵愛を笠に着て専権を振るうも、わが世の春は短し 父母ともに不詳。張惇(ちょうとん)と張恂(ちょうしゅん)は弟。 孫休が琅邪王(ろうやおう)だったとき(252~258年)、張布はその左右の将督(しょうとく)を務めて特に目をかけられた。 258年10月、孫休が、孫綝(そんりん)に帝位を追われた弟の孫亮(そんりょう)に代わって即位する。 この際、張布は長水校尉(ちょうすいこうい)から輔義将軍(ほぎしょうぐん)に昇進し、永康侯(えいこうこう)に封ぜられた。 ほどなく孫綝がクーデターを企てていることを察知した孫休は、左将軍(さしょうぐん)の張布と密かに対策を練る。 ★張布が、輔義将軍から左将軍に昇進した経緯や時期はよ

    張布(ちょうふ)
    shiromitsu
    shiromitsu 2021/12/04
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 張悌(ちょうてい) ※あざなは巨先(きょせん)

    【姓名】 張悌(ちょうてい) 【あざな】 巨先(きょせん) 【原籍】 襄陽郡(じょうようぐん) 【生没】 ?~280年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場人物。 呉(ご)に殉じた最後の丞相(じょうしょう) 父母ともに不詳。 張悌は若くして道理を知る者と評価され、孫休(そんきゅう)の時代(258~264年)に屯騎校尉(とんきこうい)を務めた。 後の279年8月、孫晧(そんこう)から丞相に任ぜられる。 翌280年に晋(しん)の大攻勢が始まると、張悌は護軍将軍(ごぐんしょうぐん)の孫震(そんしん)・丹楊太守(たんようたいしゅ)の沈瑩(しんえい)・副軍師(ふくぐんし)の諸葛靚(しょかつせい)らとともに、3万の軍勢をひきいて長江(ちょうこう)を渡り、呉軍が各地で敗北を重ねる中で決死の抗戦を繰り広げた。 しかし敵の大軍をい止めることはかなわず、張悌や沈瑩は晋

    張悌(ちょうてい) ※あざなは巨先(きょせん)
    shiromitsu
    shiromitsu 2021/11/06
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 全尚(ぜんしょう)

    【姓名】 全尚(ぜんしょう) 【あざな】 ? 【原籍】 呉郡(ごぐん)銭唐県(せんとうけん) 【生没】 ?~258年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第113回で初登場。 【正史】 登場人物。 落日の一族にとどめを刺した失言 父母ともに不詳。全琮(ぜんそう)とは同族。は孫峻(そんしゅん)の姉の孫氏(そんし)。全紀(ぜんき)という息子がおり、娘の全氏は孫亮(そんりょう)の皇后となった。 252年、孫亮の即位に伴って娘の全氏が皇后に立てられると、全尚も城門校尉(じょうもんこうい)に任ぜられ、都亭侯(とていこう)に封ぜられた。 その後、全尚は滕胤(とういん)に代わって太常(たいじょう)・衛将軍(えいしょうぐん)に任ぜられ、永平侯(えいへいこう)に爵位が進み、録尚書事(ろくしょうしょじ)となる。 このころ全氏一族から侯に封ぜられた者が5人も出て、それぞれ兵馬を預かり、ほかの者も侍郎(じろ

    全尚(ぜんしょう)
    shiromitsu
    shiromitsu 2021/10/02
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 秦旦(しんたん)

    【姓名】 秦旦(しんたん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 遼東(りょうとう)で待っていた思わぬ苦難 父母ともに不詳。 233年、孫権(そんけん)は、前年に臣従を申し出た遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫淵(こうそんえん)を信じ、彼を燕王(えんおう)に封ずることにする。 そこで、公孫淵が遣わした校尉(こうい)の宿舒(しゅくじょ)と郎中令(ろうちゅうれい)の孫綜(そんそう)が帰国する際、呉(ご)の太常(たいじょう)の張弥(ちょうび)、執金吾(しつきんご)の許晏(きょあん)、将軍の賀達(がたつ)らに1万の兵を付けて同行させ、財宝や九錫(きゅうせき)の下賜品を授けようとした。 このとき秦旦は中使(ちゅうし。主君の個人的な挨拶を伝える役)として、張羣(ちょうぐん)・杜徳(ととく)・黄疆(こうきょう)らとと

    秦旦(しんたん)
    shiromitsu
    shiromitsu 2021/09/04
    三国志に登場する、呉(ご)の重臣クラスの人物の個別記事