魏に関するshiromitsuのブックマーク (432)

  • 曹氏(そうし)と袁氏(えんし)の縁組について

    こちらの謎は曹氏(そうし)と袁氏(えんし)の縁組に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 建安(けんあん)8(203)年に曹操(そうそう)は劉表(りゅうひょう)討伐に向かい、軍勢をひきいて西平(せいへい)まで進みました。 これ以前に曹操が鄴(ぎょう)を離れて許(きょ)へ帰った後、冀州(きしゅう)では袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)が支配権を巡る争いを繰り広げます。 敗れた袁譚は平原(へいげん)へ逃げますが、袁尚軍に激しく攻め立てられたため、辛毗(しんぴ)を遣わし曹操に降伏を申し入れたうえ、救援を要請しました。 曹操は荀攸(じゅんゆう)の進言を受けて袁譚の要請を容れ、西平から黎陽(れいよ

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    shiromitsu 2020/12/05
    魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関する謎
  • 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の息子たちに夭折(ようせつ)が続いた理由について

    こちらの謎は魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の息子たちに関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 魏の曹叡の跡を継いだのは養子の曹芳(そうほう)ですが、曹叡には実子の息子が少なくとも3人いたことがうかがえます。 まずは曹冏(そうけい)です。 「[魏の黄初(こうしょ)7(226)年8月]辛巳(しんし。12日)、立皇子冏(曹冏)為清河王(せいかおう)」 「[同年]冬十月、清河王冏(曹冏)薨」 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) 続いて曹穆(そうぼく)です。 「[魏の太和(たいわ)2(228)年9月]乙酉(いつゆう。29日)、立皇子穆(曹穆)為繁陽王(はんようおう)」 「[魏の太和3(2

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    魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関する謎
  • 曹琬(そうえん)の生母について

    こちらの謎は曹琬(そうえん)の生母に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 まずは曹均(そうきん)の息子である曹琬が、伯父にあたる曹昂(そうこう)の家を継いだ経緯を述べたのが、以下の「曹昂伝」の記事。 「豊愍王(ほうびんおう)昂(曹昂)字子脩(ししゅう)。弱冠挙孝廉(こうれん)。随太祖(たいそ。曹操〈そうそう〉)南征、為張繡(ちょうしゅう)所害。無子」 「黄初(こうしょ)二(221)年追封、諡曰豊悼公(ほうとうこう)。三(222)年、以樊安公(はんあんこう)均(曹均)子琬(曹琬)奉昂(曹昂)後、封中都公(ちゅうとこう)。其年徙封長子公(ちょうしこう)。五(224)年、追加昂(曹昂)号曰豊悼

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    魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関する謎
  • 魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の生年について

    こちらの謎は魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の生年に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 「[魏の景初(けいしょ)]三(239)年春正月丁亥(ていがい。1日)、太尉(たいい)宣王(せんのう。司馬懿〈しばい〉)還至河内(かだい)……即日、帝(曹叡)崩于嘉福殿(かふくでん)、時年三十六」 『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉) この記事によれば、曹叡は亡くなったとき36歳だったとあります。 彼の生母とされる甄氏(しんし)は、初め袁紹(えんしょう)の次男の袁熙(えんき)に嫁いでいました。建安(けんあん)9(204)年8月に曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)を陥した際に捕らえられ、後に曹丕(そ

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    魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関する謎
  • 「魏(ぎ)の曹氏(そうし)の謎」収録テーマ一覧

    「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じた、魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関するテーマの一覧です。

    「魏(ぎ)の曹氏(そうし)の謎」収録テーマ一覧
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    魏(ぎ)の曹操(そうそう)を中心とした一族に関する謎
  • 婁圭(ろうけい) ※あざなは子伯(しはく)

    【姓名】 婁圭(ろうけい) 【あざな】 子伯(しはく) 【原籍】 南陽郡(なんようぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第184話で初登場。 【演義】 第059回で初登場。 【正史】 登場人物。 曹操(そうそう)父子を皮肉ったことで処刑される 父母ともに不詳。 婁圭は若いころ曹操と知り合い、初平(しょへい)年間(190~193年)には荊州(けいしゅう)の北境で群衆を集めていたが、後に曹操のもとへ赴く。 曹操は婁圭を大将(たいしょう)としたものの、軍の指揮は執らせず、いつも会議に同席させていた。 204年?、河北(かほく)が平定されると、婁圭は曹操に付き従って冀州(きしゅう)へ赴く。 曹操が子どもたちを連れて遊楽に出かける際、たまに婁圭も随行した。そのとき婁圭が振り返り、左右の者に言う。 「この家(曹氏)の父と子は、今日のような楽しみを味わったことがあっただろうか?」 婁圭の発言を伝

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    三国志に登場する、魏(ぎ)の重臣クラスの人物の個別記事
  • 路粋(ろすい) ※あざなは文蔚(ぶんうつ)

    【姓名】 路粋(ろすい) 【あざな】 文蔚(ぶんうつ) 【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん) 【生没】 ?~214年?(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第023回で初登場。 【正史】 登場人物。 孔融(こうゆう)を弾劾する上奏文を起草 父母ともに不詳。息子がいたことがうかがえる。 路粋は若いころ蔡邕(さいよう)に学び、190年には献帝(けんてい)の御車に随行して三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)へ赴く。 そして建安(けんあん)年間(196~220年)の初め、優れた才能により厳像(げんしょう。厳象)とともに抜てきされ、尚書郎(しょうしょろう)に任ぜられる。 後に路粋は軍謀祭酒(ぐんぼうさいしゅ)となり、陳琳(ちんりん)や阮瑀(げんう)らとともに記室(きしつ)を担当した。 208年、孔融に過失があった際、路粋は曹操(そうそう)の命を受けて上奏文を起草した。 孔融が処刑され

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  • 令狐邵(れいこしょう) ※あざなは孔叔(こうしゅく)

    【姓名】 令狐邵(れいこしょう) 【あざな】 孔叔(こうしゅく) 【原籍】 太原郡(たいげんぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 氷雪のように清潔な政治 父母ともに不詳だが、父は漢(かん)の烏丸校尉(うがんこうい)を務めたという。令狐華(れいこか)という息子がおり、令狐愚(れいこぐ)は族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)。 建安(けんあん)年間(196~220年)の初めに袁氏(えんし。袁紹〈えんしょう〉)が冀州(きしゅう)にあったとき、令狐邵は太原を離れて鄴(ぎょう)に住んでいた。 204年、令狐邵が武安(ぶあん)の毛城(もうじょう)へ行っている間に、曹操(そうそう)が鄴を陥し、そのまま毛城を包囲する。 そして毛城が敗れると、令狐邵を始めとする仲間10余人が捕らえられ、みな斬刑に該当した。 このとき曹操は令狐邵と会ったが、

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  • 劉伶(りゅうれい) ※あざなは伯倫(はくりん)、竹林七賢(ちくりんのしちけん)のひとり

    【姓名】 劉伶(りゅうれい) 【あざな】 伯倫(はくりん) 【原籍】 沛国(はいこく) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 父母ともに不詳。 劉伶は、阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・阮咸(げんかん。阮籍の甥)・王戎(おうじゅう)とともに竹林七賢のひとりに数えられた。 ただ『三国志』の文には登場せず、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王粲伝〈おうさんでん〉)に付された「嵆康伝」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』に名が見える程度である。 管理人「かぶらがわ」より 劉伶については記事の確認作業が細部までできず、ちょっと手を出せない感じでした。 『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)では、『晋書(しん

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  • 劉類(りゅうるい)

    【姓名】 劉類(りゅうるい) 【あざな】 ? 【原籍】 高陽郡(こうようぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 監視に付けた部下を別の部下に監視させる 父母ともに不詳。 劉類は各地の刺史(しし)や太守(たいしゅ)を歴任したが、その統治は非常に過酷なものだった。 だが、彼自身は上役との人間関係をうまく処理したため、世間から追放されることはなかった。そして、曹芳(そうほう)の嘉平(かへい)年間(249~254年)に弘農太守(こうのうたいしゅ)となる。 劉類は200余人いる部下たちに休暇を与えず、いつも不急の仕事に使った。さらに部下に過失があったときは軽重の区別をつけず、髪の毛を引き抜いたり、杖でめった打ちにするといったことを繰り返した。 また部下を使い、地面を掘らせて銭を探させたので、あちこちの市場は穴だらけになってしまった。 劉類

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  • 劉雄鳴(りゅうゆうめい)

    【姓名】 劉雄鳴(りゅうゆうめい) ※雄鳴はあざなか? 【原籍】 京兆郡(けいちょうぐん)藍田県(らんでんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 曹操(そうそう)が夢で見た神人? 父母ともに不詳。 劉雄鳴は若いころから薬草の採取と狩猟を生業とし、覆車山(ふくしゃざん)の麓に住んでいた。彼は朝から晩まで雲霧の中を歩き回ったものの、決して道に迷うことがない。そのため人々は、彼には雲霧を起こす力があるのだとうわさした。 192年、李傕(りかく)と郭汜(かくし)が長安(ちょうあん)で反乱を起こすと、多くの人々が劉雄鳴のもとへ避難してきた。 建安(けんあん)年間(196~220年)、劉雄鳴は州郡に従属し小将(しょうしょう)となる。 211年、馬超(ばちょう)らが反乱を起こすと、劉雄鳴は抵抗して撃破され、今度は曹操のところへ赴く。 すると曹

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  • 劉先(りゅうせん) ※あざなは始宗(しそう)

    【姓名】 劉先(りゅうせん) 【あざな】 始宗(しそう) 【原籍】 零陵郡(れいりょうぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第145話で初登場。 【演義】 第040回で初登場。 【正史】 登場人物。 私の目に映る者、みなそう(群凶〈凶悪な者ども〉)です 父母ともに不詳。周不疑(しゅうふぎ)は甥(母の姉妹の息子)。 劉先は博学で記憶力に優れ、老荘の学を好み、漢朝(かんちょう)の故実にも習熟していたという。 劉先が、荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)に仕えて別駕(べつが)を務めていたとき、上表文を携えて許(きょ)へ赴き、曹操(そうそう)と会見する機会があった。 大勢の賓客が居並ぶ中、曹操が、以前に劉表が郊外で天を祭ったことについて尋ねると、劉先はこう答えた。 「劉牧(荊州牧の劉表)は漢室に肺腑(はいふ。心の奥底)を託され、州牧の位にお就きです」 「ところが王道はいまだ安定せ

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  • 劉整(りゅうせい)

    【姓名】 劉整(りゅうせい) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~253年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 魏(ぎ)への忠義を貫いた兵士 父母ともに不詳。 253年、呉(ご)の太傅(たいふ)の諸葛恪(しょかつかく)に合肥新城(ごうひしんじょう)が包囲されたとき、劉整は鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)配下の一兵士だった。 この戦いの途中、劉整は城外の味方に情報を伝えるための使者として遣わされる。ところが城外へ出た後、呉軍に捕らえられてしまう。 ありのまま白状すれば命を助けてやると言われたが、劉整は彼らを罵倒し続け、口を割らなかったため殺された。 翌254年、毌丘倹の上言により劉整の功が評価され、関中侯(かんちゅうこう)の爵位を追贈されたうえ兵士の名簿から外される。 また、劉整の息子が爵位を継ぐことも認められ、部曲将(ぶ

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  • 劉靖(りゅうせい)C ※劉馥(りゅうふく)の息子、魏(ぎ)の建成郷景侯(けんせいきょうけいこう)

    【姓名】 劉靖(りゅうせい) 【あざな】 ? 【原籍】 沛国(はいこく)相県(しょうけん) 【生没】 ?~254年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 優れた統治センスは父譲り、建成郷景侯(けんせいきょうけいこう) 父は劉馥(りゅうふく)だが、母は不詳。息子の劉熙(りゅうき)は跡継ぎで、劉弘(りゅうこう)も同じく息子。 208年、劉靖は劉馥が死去したため跡を継いだ。 曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、黄門侍郎(こうもんじろう)から廬江太守(ろこうたいしゅ)に昇進。 河内(かだい)への転任を経て尚書(しょうしょ)に昇進し、関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。やがて河南尹(かなんいん)として転出した。 劉靖のやり方は最初こそ細かく煩雑に思われたが、最後には民に都合のよいものとなる。こうした様子から、父の劉馥の遺風が感じられたという。

    劉靖(りゅうせい)C ※劉馥(りゅうふく)の息子、魏(ぎ)の建成郷景侯(けんせいきょうけいこう)
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  • 劉弘(りゅうこう)A ※劉靖(りゅうせい)Cの息子

    【姓名】 劉弘(りゅうこう) 【あざな】 叔和(しゅくか)? ※正しくは季和(きか)か? 【原籍】 沛国(はいこく)相県(しょうけん) 【生没】 236~306年(71歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 劉公の一紙は10組の従事(じゅうじ。官名)に勝る 父は劉靖(りゅうせい)だが、母は不詳。劉馥(りゅうふく)は祖父。劉熙(りゅうき)は兄。劉璠(りゅうはん)という息子がおり、夏侯陟(かこうちょく)に嫁いだ娘もいた。 劉弘は晋(しん)の司馬炎(しばえん)と同い年で、同じ里(まち。洛陽〈らくよう〉の永安里〈えいあんり〉)に住んでいたことがあった。このときの誼(よしみ)もあり、後に高官まで昇る。 劉弘には父と同じく名声があったが、それに見合うだけの政治的な才能を持っていた。 晋(西晋)末には車騎大将軍(しゃきだいしょうぐん)・開府(かいふ)・荊州刺史(けいしゅう

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  • 李豊(りほう)A ※あざなは安国(あんこく)

    【姓名】 李豊(りほう) 【あざな】 安国(あんこく) 【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)東県(とうけん) 【生没】 ?~254年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第109回で初登場。 【正史】 登場人物。 曹爽(そうそう)と司馬懿(しばい)のどちらにも付こうとせず、結局は破滅 父は李義(りぎ。一名を李恢〈りかい〉ともいう)だが、母は不詳。李翼(りよく)と李偉(りい)は弟。李韜(りとう)という息子がいた。 李豊は無位無官だった17、8歳のころから、住んでいた鄴(ぎょう)の周辺で清廉潔白との評判を得ていた。また、彼には人物を見分ける才能があり、皆の期待を集めた。 曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、李豊は父の李義の縁故により、召されて軍に入る。後に軍に付き従って許昌(きょしょう)へ移ると、彼の名声は日増しに高まったという。 しかし李義は、息子のこうした状況が好ま

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  • 李孚(りふ) ※あざなは子憲(しけん)

    【姓名】 李孚(りふ) 【あざな】 子憲(しけん) 【原籍】 鉅鹿郡(きょろくぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 第119話で初登場。 【演義】 第032回で初登場。 【正史】 登場人物。 曹操軍(そうそうぐん)の包囲をかいくぐり、鄴城(ぎょうじょう)へ連絡をつける 父母ともに不詳。もとは馮姓(ふうせい。馮孚)だったが、後に李姓に改めたという。 興平(こうへい)年間(194~195年)、鉅鹿郡の民が飢えに苦しんだ。このとき李孚は学生だったものの、自分で薤(ニラ)を植えており、これが成熟するのを待っていた。 李孚は、薤を欲しがる者が来ても1も分けず、かと言って(成熟する前に)自分でべるわけでもない。そのため当時の人々は「よく意志を貫く人物だ」と評した。 やがて李孚は官吏になる。 202年、死去した袁紹(えんしょう)の跡を継ぎ、息子の袁尚(えんしょう)が冀州(きしゅう)を支配する

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  • 楊豊(ようほう)B ※あざなは伯陽(はくよう)、もとの名は楊阿若(ようあじゃく)

    【姓名】 楊豊(ようほう) 【あざな】 伯陽(はくよう) 【原籍】 酒泉郡(しゅせんぐん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 俠客(きょうかく)から駙馬都尉(ふばとい)へ 父母ともに不詳。もとの名を阿若(あじゃく。楊阿若)という。 楊豊は若いころ俠客となり、あだ討ちなど、人の恨みを晴らすことを生業にする。そのため当時の人々から、「東市に相斫(き)る楊阿若、西市に相斫る楊阿若」と称された。 建安(けんあん)年間(196~220年)、酒泉太守(しゅせんたいしゅ)の徐揖(じょゆう)が郡中の豪族の黄氏(こうし)一族を誅殺した。 このとき黄昂(こうこう)は脱出できたので、自家の穀物と金を数斛(すうこく)遣い、1千余人を集めて徐揖を攻めた。これを受け、徐揖は城に立て籠もる。 ちょうど外出していた楊豊が戻ると、黄昂の行いを不義と感じ、子を残し

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  • 楊沛(ようはい) ※あざなは孔渠(こうきょ)

    【姓名】 楊沛(ようはい) 【あざな】 孔渠(こうきょ) 【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)万年県(ばんねんけん) 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 剛直廉潔な名太守(めいたいしゅ)ながら、終(つい)の住み家は瓜牛廬(かぎゅうろ。カタツムリの殻の形をした小屋、蝸牛廬) 父母ともに不詳。 初平(しょへい)年間(190~193年)、楊沛は三公の府の令史(れいし)となり、やがて新鄭県長(しんていけんちょう)に任ぜられる。 その後、興平(こうへい)年間(194~195年)の末になると、飢餓に苦しむ者が続出した。 そこで楊沛は県民ごとに割り当てを定め、乾燥させた桑の実を多めに蓄えるよう言いつけ、䝁豆(ろうとう。野生の豆)を収穫させた。 さらに調査を実施し、余裕のある者には余裕のない者の不足分を補わせる。こうして1千余斛(ごく)の備蓄ができた

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  • 楊脩(ようしゅう) ※あざなは徳祖(とくそ)

    【姓名】 楊脩(ようしゅう) 【あざな】 徳祖(とくそ) 【原籍】 弘農郡(こうのうぐん)華陰県(かいんけん) 【生没】 175~219年(45歳) 【吉川】 第092話で初登場。 【演義】 第023回で初登場。 【正史】 登場人物。 若者の中では楊徳祖 父は楊彪(ようひゅう)、母は袁氏(えんし。袁術〈えんじゅつ〉の姉妹)。楊囂(ようごう)という息子がいた。 楊脩は謙虚で幅広い才能を持ち、禰衡(でいこう。198年没)が「許都(きょと)にいる若者の中で一番マシだ」と高く評価した逸材だった。 楊脩は、建安(けんあん)年間(196~220年)に孝廉(こうれん)に推挙され郎中(ろうちゅう)に任ぜられたものの、丞相(じょうしょう)の曹操(そうそう)の要請により倉曹属主簿(そうそうぞくしゅぼ)として起用された。 ★曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。 このころ軍や国政に関して事が多かったが、

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