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2019年1月27日のブックマーク (3件)

  • 雑誌の「大量生産・大量流通」システムを作り上げた企業家の誕生(魚住 昭) @gendai_biz

    ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。 部数が伸び悩んだ雑誌『講談倶楽部』の編集方針を刷新し、「新講談」を軸にすえて成功を収めた清治。そのころ清治が出会ったある企業家は、のちに、出版業界を支える「流通システム」を大きく変えることになるのだった。 第四章 団子坂の奇跡──東京堂・講談社枢軸の形成⑴ 大野孫平 翌大正3(1914)年2月、「新講談」で上げ潮に乗った清治は大野孫平(まごへい)と出会う。この出会いは、清治の出版人生にとって決定的な意味を持つ。 大野は、戦前最大の元取次(出版社と書店をつなぐ全国規模の流通業者)だった東京堂の経営者で、「業界最高の実力者、また指導者として衆望の中心とされつつ、わが出版販売史上に不滅の功績を数多く積み重ねた」(『日出版販売史』)人物である。 し

    雑誌の「大量生産・大量流通」システムを作り上げた企業家の誕生(魚住 昭) @gendai_biz
    shomotsubugyo
    shomotsubugyo 2019/01/27
    あら、こんなオモシロな連載が始まっていたとは知らなんだ(^-^;)
  • 人文系(の一部)は外部研究資金なしでどうやってきたのか?(下書き) - digitalnagasakiのブログ

    母校で先生をやっている後輩氏が、かつて人文系の教員は外部研究資金を取らなくても研究できていたしその行為自体を否定的に見ていた人もいたという話をツィートしていた。確かに、母校の出身研究科(哲学・思想)が特に研究資金獲得から縁遠いところだったこともあり、そういえばそういう感じだったということを思い出した。が、同時に、それが当時なぜ可能だったのかということを、主に学生・院生時代に個人的に見聞きしてきたことを中心に、少し想像してみたいと思う。 かつて、学術出版社がまだ割と元気だった頃は、出版社の編集者が学術書だけでなく学術的なことを書いた啓蒙書の企画を持ってきたり、教科書の企画を持ってきたりして、人文系の研究者はいわれるがままに原稿を書いて渡せば、あとは出版社が勝手に組版してくれて、あとは校正に少しお付き合いすれば、いつの間にか書店に並ぶようになって国立国会図書館にも納されて、販促も出版社が一生

    人文系(の一部)は外部研究資金なしでどうやってきたのか?(下書き) - digitalnagasakiのブログ
    shomotsubugyo
    shomotsubugyo 2019/01/27
    人文系学問をやるには、手厚い図書館サービスが必要だったし、いまでもかなりそうなんじゃないかなぁ…
  • ワキヤ書房の脇清吉 - 神保町系オタオタ日記

    『古年鑑』には載っていないが、松ヶ崎の京都高等工藝学校(現在の京都工芸繊維大学)前にワキヤ書房という古屋があった。店主は脇清吉といって、武林無想庵について回想文*1を書いている。 京都の松ケ崎に京都工芸学校があって、校門前で、なまえばかりの古屋をしていましたが、昭和十一年かと思うのですが、お医者さんあり、新聞記者、私といった古屋もまじった二十数人がいゝあわして「知恵を盗む会」という、いまでいえば、アイデア研究会とでも名づけたいところでしょうが、(略)毎月一回ぐらいは、智恵が盗れそうな、著名人というよりも、つむじのまがったひとたちをひっぱりだして集ってたのしんでいました。 なかまのある芸能関係の人から、武林無想庵が比叡山にきているから話しを聞こうじゃないか、といわれ、私が世話がかりをしていたものですから、おっかなびっくり延暦寺の宿坊に武林さんをたずねてゆきました。 脇清吉(1902-

    ワキヤ書房の脇清吉 - 神保町系オタオタ日記
    shomotsubugyo
    shomotsubugyo 2019/01/27
    『碑-脇清吉の人と生活』何年か前、ヤフオクに出たんだけど1マン円以上してたなぁ。でも、ほとんどどこにも残ってないからなぁ…。