大宅壮一文庫理事長は評論家の大宅映子さん。後ろの書棚の写真は大宅壮一氏と初代理事長、大宅夫人の昌さん。最近行った対談の際に山根事務所スタッフが撮影 1923(大正12)年9月1日、相模湾を震源とする関東大震災が発生した。東京都心は大火災に見舞われ、首都は壊滅。死者・行方不明者は10万5000人。その犠牲者の87%が焼死という生き地獄だった。 その関東大震災を予測し、想定焼失戸数や死者数を18年前の1905(明治38)年9月に発表した偉大な地震学者がいた。今村明恒(1870~1948年)だ。 雑誌『太陽』(博文館)に「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」という一文を寄稿したが、一般向け雑誌であったため大反響があり、その後「ほら吹き」という批判にさらされることにもなった。2013年には『関東大震災を予知した二人の男 大森房吉と今村明恒』(上山明博著、産経新聞出版発行)という
佐藤義亮『出版おもいで話』(『出版人の遺文 新潮社佐藤義亮』栗田書店、昭和43年6月)には、次のような一節がある。 雑誌はだんだんよくなるのだが、それで生活のできる見込みはもちろんつかない。二十一年も暮れ近くなると、寒さと共に貧乏が骨に徹してくる。何とか打開の途を講じなくてはと首をひねって考えついたのは、『文章講義録』の発行だった。 誰もまだ手を染めてはいないし、これならば大丈夫と見込みはついたが、内容見本をこしらえる金もない。仕方がないから、一枚の紙に規定や何かを刷り込んだ簡単至極のものをつくり、新聞に小さな広告をだしたところ、これが当った(当時として……)。成績は上々で、ほっと息をつくことができた。 執筆者は、大町桂月、杉烏山(敏介。当時の新体詩人、後の一高校長)、 内海月杖(弘蔵。後の明大野球部長)、田岡嶺雲等々、大学を出たばかりの花形揃い、それに私と梅溪君とは、変名でさまざまの題目
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