ブックマーク / tabinagara.jp (9)

  • 変遷する玉手山公園―西日本初の遊園地から地域の憩いの場へ― - 旅ながらの日々

    玉手山遊園地…。なんと懐かしい響きだろう。 1,908年 (明治41年) に西日初の遊園地として開園され、昭和30年代の最盛期には、年間数万人の来園者をかぞえ大変な賑わいをみせていたこの遊園地も、しかし、その後は少子化などの影響から徐々に来園者数が減少し、1998年 (平成10年) 5月、ついには惜しまれながらの閉園に至った。 現在、その跡地は柏原市立玉手山公園・ふれあいパークと装いを新たにし、多くの市民に親しまれている。 玉手山公園の魅力とは 玉手山公園の来園について アクセス 駐車場 入園料・休園日 園内案内 蛍の光 玉手山公園の魅力とは 玉手山公園 (玉手山遊園地) の魅力のひとつに、その立地をあげてもいいだろう。 北を流れる大和川と西の石川との合流地点から南にひろがる狭い玉手山丘陵には、多くの古墳が点在し、玉手山古墳群をなしている。 玉手山古墳群の範囲については様々な提言があるが

    変遷する玉手山公園―西日本初の遊園地から地域の憩いの場へ― - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/12/31
    松野文彦様、こんにちは!🙂今年はお世話になりありがとうございました。😌よいお年をお迎えください。🙂
  • 【高井田横穴公園】古墳を頂く史跡公園の魅力を解説。駐車場、アクセス情報も - 旅ながらの日々

    大阪府柏原市にある高井田横穴公園は、6世紀中ごろから7世紀前半にかけて築造された高井田横穴群を史跡公園として整備し、平成4年 (1992年) 5月に開園された。 現在までに確認されている横穴は162基。 そのうちの27基から線刻壁画が発見されている。 しかし、この公園のもうひとつのハイライトは、園内のもっとも標高の高いところにある。 ~目次~ 高井田山古墳 高井田横穴群 駐車場、アクセス情報 柏原市立歴史資料館 園内散策 おわりに 高井田山古墳 標高わずか65メートルの高井田山の山頂には、斜面に掘られた横穴群に先行すること約1世紀、5世紀後半の築造と考えられる高井田山古墳がある。 直径約22メートルの円墳。ただし小さな前方部が接続されている可能性を指摘する声もある。 現在では墳丘部は取り払われ、石室は透明のアクリル板で覆われており、外から石室内部を見ることが可能となっている。 石室から出土

    【高井田横穴公園】古墳を頂く史跡公園の魅力を解説。駐車場、アクセス情報も - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/12/04
    松野文彦さま🌅こんにちは!🙂いつもご訪問いただきありがとうございます。🙂
  • 【相撲の神様】不本見神社のヤーホ様に会いに行ったのに会えなかったはなし - 旅ながらの日々

    大阪府千早赤阪村の不見神社 (ふもとみじんじゃ) 周辺には不思議な話が伝わる。 むかし、子供たちが不見山で相撲をとっていたところ、樹々のうえのほうから「ヤーホ、ヤーホ」と声がした。見上げるが誰もいない。ただ風が吹くばかり。そしてどこからか笑い声が聞こえてきた。 子供たちは怖くなって逃げかえり、大人たちをつれて山に戻ってきた。 みなで手分けしてあたりを探しまわるが、誰もいない。 ふと見ると、子供たちが脱ぎ捨てておいた衣服が、きれいに畳まれていたという。 ああ、これはきっと相撲好きの神様が、子供たちの取り組みを楽しみに見に来られたのだということになり、以来、不見神社では子供たちによる奉納相撲が行われるようになった。 いまも秋祭りには「ヤーホ相撲」がにぎやかにひらかれている。 このはなしを知ってからというもの、わたしはこの神様を相撲の神様「ヤーホ様」と呼び、ひそかに親しみを寄せている。 ヤ

    【相撲の神様】不本見神社のヤーホ様に会いに行ったのに会えなかったはなし - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/09/22
    こんにちは!🙂いつもありがとうございます。😌
  • 【等乃伎神社】古事記にしるされた古代巨樹祭祀の残像を求めて - 旅ながらの日々

    失われた古代祭祀の全容を知ることは容易ではない。 周知のように銅鐸などはなんらかの祭祀につかわれていたのでは、と考えられているが、それについての詳細な記述は、記紀のような古典においても見ることができない。ただ土の中に埋められて、語られることさえ憚られたとでもいうように忘れ去られてしまい、後世、偶然に掘り返されたときには、みなが首をかしげて言う。 どうしてこんなところに埋めたんだ? これにはどんな意味があるんだ? なにに使った? また荒神谷遺跡 (出雲市斐川町) から、1984年 (昭和59年)に358もの銅剣が出土したとき、世間はその数の多さから世紀の大発見と騒ぎたてたが、実際に現地に足を運び、遺跡を目前にしたものは、そこが言うべき特徴のない、何の変哲もない谷の斜面であることに驚いたことだろう。 新たな祭祀が生まれるとき、その執行者は、先行する祭祀の伝承を認めることはなかったのだと、想像

    【等乃伎神社】古事記にしるされた古代巨樹祭祀の残像を求めて - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/07/15
    こんにちは!🙂いつも大変お世話になっております。かなり歩かれてお疲れ様でした。
  • 【京都市上京区】晴明神社 ~五芒星、清明井、一条戻り橋を越えて~ - 旅ながらの日々

    京都の晴明神社というと、なにやら魑魅魍魎の跋扈するといったイメージを抱くヒトもおられるのだろうか。曰く、陰陽師、安倍晴明公、式神…。 しかし、それらは人気の歌舞伎や映画などの創作の世界にに引きずられたものだ。 実際の晴明神社の坐すのは、京都御所から西にわずか1キロ足らず、様々な伝承をもつ一条戻り橋からすぐのところになる。 蒼とした鎮守の杜に囲まれているのではなく (しかし立派な御神木はある)、境内は日の光をいっぱいにうけて、突き抜けるように明るい。そして、清浄な風が吹き抜けている。 京都を南北にはしる幹線道路、堀川通に面し、日々多くの参拝者が訪れている。 ~目次~ 晴明神社の創建 清明公屋敷跡 晴明神社と陰陽道 一条天皇と怨霊伝説 境内案内 一の鳥居 二の鳥居 一条戻り橋 五芒星 清明井 聚楽屋敷跡 一条戻り橋を越えて 晴明神社の創建 清明公屋敷跡 晴明神社は1005年 (寛弘2年)、清

    【京都市上京区】晴明神社 ~五芒星、清明井、一条戻り橋を越えて~ - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/05/21
    こんにちは!🙂いつもお世話になっております。😌京都、晴明神社に行かれたのですね🙂もう何十年も前に一度行きました。懐かしく拝見させていただきました。ありがとうございました。😏
  • 【相撲の歴史】国譲り神話にみるその起源から現代に残る奉納相撲の跡まで - 旅ながらの日々

    相撲の起源はいつどこに求めればよいのだろう。 向きあった力士どうしが呼吸を合わせ、両手を土俵につけるや、立ち合いの一瞬、バシンッ、と凄まじい音を立ててぶつかりあう二つの巨きなからだ。隆起する二の腕の筋肉、四つの足が土俵にめり込まんばかりになる。 見るものを陶酔と熱狂へと連れ去る、そんな相撲の始まりは、いったいどのようなものだったのだろうか。 国譲り神話 野見宿禰と當麻蹶速 初の天覧相撲 腰折田 當麻蹶速之塚 奈良時代から江戸時代まで 相撲節会 武家相撲と勧進相撲 奉納相撲の跡をたずねて おわりに 国譲り神話 神話の世界にまで遡ってみると、古事記における出雲の国譲り神話の、大国主神の子、建御名方神 (たけみなかたのかみ) と天津神・建御雷神 (たけみかづちのかみ) との伊耶佐之小濵 (いなさのおはま・稲佐の浜) でのちからくらべを相撲の起源とみることができる。 ■それぞれの国譲り神話■ 古事

    【相撲の歴史】国譲り神話にみるその起源から現代に残る奉納相撲の跡まで - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/04/16
    こんにちは!いつも大変お世話になっております。ありがとうございます😌ちゃんこ鍋食べてみたいです🤗
  • 行ってよかった 葛城市相撲館「けはや座」 大相撲春場所開催によせて - 旅ながらの日々

    我が国最古の天覧相撲の記録は、日書紀によると、第11代垂仁天皇の御前での大和の當麻蹶速 (たいまのけはや) と出雲の野見宿禰 (のみのすくね) のとりくみとなる。 もっともこの時代の捔力 (すまひ)、現代の角力 (すもう) とは少々異なっている。 なにしろ野見宿禰は、敗れた當麻蹶速の腰骨を踏み折ったというのだから、いまならさしずめデスマッチのレスリングといったところか。 また、そのとりくみの日が「垂仁天皇7年7月7日」とされているなど、相撲が七夕を中心とした一連の行事のひとつであったとも考えられている。 へえ、野見宿禰って出雲のヒトなんだね。 そうなんだ。ただ、山陰の出雲国とする説と、大和国の出雲、現在の奈良県桜井市出雲とする説の二説があるね。 どちらかはわからないのね。 日書紀を読むと、七夕の7月7日に呼ばれてすぐに来たように読めなくもないから、大和の出雲とするほうが説得力があるかも

    行ってよかった 葛城市相撲館「けはや座」 大相撲春場所開催によせて - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/03/22
    こんにちは!🙂けはや座という相撲館があるんですね😅なかなか興味深いです😏ありがとうございました
  • 因幡の白兎伝承をめぐって。古事記神話、白兎神社、亀井玆矩公の視点から - 旅ながらの日々

    古事記にあって、もっともよく知られひろく親しまれているのは、因幡の白兎 (稲葉之素菟) のくだりに違いない。 淤岐島から今まさに気多の前に渡り終えようとしたときに、兎は鰐を怒らせてしまい毛皮を剝がれてしまう。そこに八上比賣 (八神姫) に求婚するために通りかかった八十神たち。兎は八十神に教わったままに、海水を浴びて風に当たっていたが、やがて海水が乾くにつれて皮膚がひび割れ、痛みのあまり泣きだしてしまう。 ■淤岐島は隠岐の島?■ 島根半島の50キロ北方に位置する隠岐の島とする説が有力。しかし、同じ古事記の国生みのくだりには淡路島、四国と国生みしたあとに、隠伎の三つ子の島を生んだ、と隠岐の島のことを表していることを踏まえれば、これを白兎海岸のさき、150メートルの海上にある小さな岩島、淤岐ノ島と考えることもできる。もっともそれは古事記等にならって後代に名付けられたものに違いなく、それまでは長い

    因幡の白兎伝承をめぐって。古事記神話、白兎神社、亀井玆矩公の視点から - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/02/25
    こんにちは!かなりお調べになってるのですね!😳
  • 【奈良県東吉野村】天誅組終焉の地、烈士の熱き誠のあとを訪ねて - 旅ながらの日々

    天誅組の変に対する世間の評価は、令和のいまとなっても定まっているとは言い難い。 おなじ江戸時代の大塩平八郎の乱などには、われわれは散りゆく美学のようなものをそこに見る。 しかし40日にわたって大和国を転戦した天誅組にたいしては、そのような視線を向ける者ばかりではない。 暴徒、あだ花と一蹴する向きもある。 文久3年8月13日、孝明天皇による大和行幸の詔勅が発せられると、公卿 中山忠光 (孝明天皇の元侍従、明治天皇の叔父) を主将とする天誅組は「皇軍御先鋒」を自負し同17日、幕府天領の五條 (現在の奈良県五條市) にあった五條代官所を焼き払い、近くの桜井寺を陣に定めると「五條御政府」の表札を門前に掲げた。 あとは御親兵として天皇をお迎えするはずだった。 しかし翌18日、京の政局は一変する。 攘夷派の公卿は官位を剝奪されて失脚し、長州藩は御所の御門警護の任を解かれ (8月18日の政変) 、大和

    【奈良県東吉野村】天誅組終焉の地、烈士の熱き誠のあとを訪ねて - 旅ながらの日々
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    sinto-zosen 2023/02/08
    お疲れ様でした😌かなり精力的に回られましたね。
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