A boy carries his belongings at a site hit by what activists said was a barrel bomb dropped by forces loyal to Syria's President Bashar al-Assad in Aleppo's al-Fardous district April 2, 2015. REUTERS/Rami Zayat TPX IMAGES OF THE DAY
英ロンドンのテムズ川越しに見る金融街シティーの風景(2014年11月14日撮影、資料写真)。(c)AFP/ANDREW COWIE 【4月7日 AFP】世界各国の政府高官や著名人らがタックスヘイブン(租税回避地)を利用した秘密の金融取引に関与していた事実が暴露された「パナマ文書(Panama Papers)」問題で、英ロンドン(London)が世界中のオフショア・ネットワークを結びつける「心臓」の役割を果たしていたことが明らかになった。 パナマの法律事務所モサック・フォンセカ(Mossack Fonseca)から流出した内部文書は、世界各地のタックスヘイブンに設立された数千の企業が英国と何らかのつながりを持っていることや、秘密資産がどのようにして英国内、特にロンドン市内の不動産に投資されたかを暴き出した。 たとえば、カリブ海(Caribbean Sea)の英領バージン諸島(Virgin I
13日夜(日本時間14日早朝)、フランスのパリでコンサートホールや北部のサッカー競技場などを標的とした同時多発テロによって、約130人が死亡する悲惨な事件が起きた。中東の過激派「IS」(イスラム国)が犯行声明を出したことで、欧米諸国によるIS支配地域への空爆に対する報復であることが明らかになっている。 このテロ事件によってかき消されているのが、12日にレバノンの首都ベイルート南部で起きた同じくISによる同時多発自爆テロ事件だ。イスラム教シーア派組織「ヒズボラ」の拠点地区である住宅街で発生、少なくとも41人が死亡、200人が負傷した。 そもそも、日本ではベイルートでのテロ事件だけでなく、米露の空爆によって命を落としたシリア市民、パレスチナ人・クルド人・ユダヤ人が絡む中東各地の内戦による死者数はあまり大きく報じられない。はたしてパリ・テロ事件での「130人死亡」というのはあくまでも数字的にみた
13日夜に発生したパリの同時多発テロで、120人を超える死者が出た。オランド仏大統領は6か所でのテロ行為を「『イスラム国(IS)』による攻撃」と述べた。 フランスの新聞はこのテロをどのように報じたのだろうか。 BBCニュースのサイトから、一部を拾ってみた。 なぜフランスでこのようなテロが起きたのか?各紙のコメンテーターたちは、ISに対するフランスの空爆へのリアクションであった、という点では一致している。フランスがISが拠点を置くシリアで空爆を開始したのは、9月である。しかし、今回のパリ・テロで多大な数の犠牲者を出したものの、フランスが国内外のIS討伐方針を変える必要はないという見方が圧倒的だった。 フランスの新聞の1面「リベラシオン」の社説はこう書いた。「1990年代に発生した(元植民地)アルジェリア内戦(注:アルジェリア政府軍と複数のイスラム主義の反政府軍との間の武力紛争)でのし烈な戦い
フランスのパリで13日夜(日本時間14日早朝)、中心部のコンサートホールや北部のサッカー場などを標的とした同時多発テロ事件が起きた。ホールで起きた銃撃事件では、100人以上が死亡。現地メディアは一連のテロによる死者は少なくとも120人以上としている。AFP通信によると、けが人は200人以上で、うち80人が深刻な状態だという。 今のところ犯行声明は出ていない。オランド仏大統領は14日未明にテレビに出演して演説。「かつてないテロだ。攻撃はまだ続いている」と述べたうえで、仏全土に国家非常事態を宣言し、国境を封鎖すると述べた。一方で、「我々は冷静にならないといけない」とも呼びかけた。また、パリのイダルゴ市長は市民に自宅から出ないよう呼びかけた。 仏政府はパリ周辺に1500人の兵士を新たに配置し、厳戒態勢を敷いた。 AFP通信によると、ホールやその周辺の飲食店など、サッカー場も含め、パリとその周辺の
パルチザン伝説 桐山襲 第一の手紙 [#地から2字上げ]1982年4月 霧に閉ざされたような、ひとつの風景がある。……海の朝、長い砂浜。季節は夏の終りのはずだが、その風景は妙に寒々しい。 渚をたどると、浜は前方でちいさな砂洲をつくりながら、海の方へと迫り出している。砂洲の突端に染のような黒い点が在り、近づいていってみると、それは脱ぎ捨てられた一足の黒い革靴なのだ。それは丁度「秋が靴のなかにはいり込んだ」とでもいえるようないかにも空っぽな風情で、満ちてくる潮に危うく持ち去られようとしている。そして霧、海と砂浜をつつんで、白い膜のような霧があたり一面を支配している…… これが、僕が自分の記憶であると信じている一九五一年の風景――つまり僕たちの父が、僕たちの前から失なわれていった時の風景であるのだ。 兄さん―― 僕たちが最後に出会った時からほとんど十年ののちに、こうして兄さんに手
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