日本に本格的な漫画批評が定着しないわけ。 <1>本当に批評すれば、批判も盛んにやらねばならない。そのためには批評の基準――漫画の文法ではなく漫画の「良し悪し」――を定めなければならない。しかしそれを公言することは幾多の人間に噛みつかれる結果を招く。*1 伊藤剛は批評の基準を確立したと言いつつ、実際にしているのは漫画の文法を見定めることだけであり、東浩紀は漫画批評は周到に避けている。上の世代の呉智英、夏目房之助、竹内オサムまで含めて、良し悪しの基準を明らかにしないのは「大勢の人間に噛みつかれたくないから」である。東浩紀などそれをやったら体重は力士並に増え続けるだろう。 <2>そもそも批判に価する漫画が少ないという事実がある。称賛に価する漫画は幾つもあるが、下を見たらキリがなく、奈落の底と言える。 この状況で、「悪しき漫画を斥けて良き漫画を擁護する」などと言えたものではない。映画批評や文芸批評
『小説トリッパー』に橋本治のインタビューが載っていて、ざっと目を通した。 「いま、誰が文学を読んでいるか」というお題。 橋本治は日本では「純文学」=文学と見なされてきた、と語る。しかし自分は純文学の世界の人ではないから、純文学とは何かは語らないと橋本治は言う。 大衆小説も昔はひどい出来だった。「鞍馬天狗」なんかを読むと、映画化したやつの方が数倍良い。それが多少質的に向上したのは、映画を意識するようになってきた頃からで、それは映画がどこまでも表現ありきのメディアだから、小説も表現を考えて書こうという作家が現れた、と。だが大半の大衆小説はやっぱりひどいままだから、何も変わってない。 山田風太郎はれっきとした文学者であって、彼の忍法小説・時代小説は「人間はいかに生きるべきか?」という問いかけがある、と橋本治は言う。そう人生論めいた文脈で風太郎を語られても困るが、まあ風太郎を文学者と位置づけている
について改めて考えてみた。好調な企業収益はいずれ家計の所得増加につながり、個人消費が活発化する、というダム論が思うように働いていない。金利水準の引き上げが可能になるためには、内需主導の自律的な景気拡大が続く必要があるが、現状では今ひとつ個人消費がぱっとせず、内需主導・自律的拡大の持続は見込みにくい。日銀としても、個人消費に火が付かないと日銀自身の尻に火か付く恐れがあるだけに、幹部からは「企業はなぜ労働者にもっと利益を分配しないのか」という焦りの声も聞かれるわけだ。 失業率の低下など雇用環境は好転している。それでも、企業収益が家計に流れにくい、すなわち所得がさほど増えない理由としては、①非正規雇用の比率が高まっている②労働者の世代交代-などが考えられる。雇用情勢が好転したとしても、非正規雇用(パート・フリーター)比率が高まる構図では、もともと労働コストは低いだけに所得は伸びにくい。また、労働
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