2012年3月14日のブックマーク (2件)

  • 「反ファシズム戦争」の論理を越えて - Arisanのノート

    今回の「従軍慰安婦」問題をめぐる日政治家や外交官の発言を読んでみっともないと思うのは、アメリカ議会への法案提出の動きなどについて、「アメリカの議員の選挙区の事情」(駐米大使)だとか、他国による「日米間の離反工作」(麻生外相)だとかいうことが、起きている事態の不当さの証明であるみたいに堂々と述べられていることだ。 どんな政治行動でも、複合的な事情なり目的はあるだろう。当たり前である。 だが、問題になっている事柄自体が「これはひどい」と思わせるものでなければ、法案提出の動きになったり、マスコミが大きく動くはずがない。 現状は、この問題に対する日政府のこれまでの対応と安倍首相の発言が、アメリカの多くの政治家やマスコミを動かすに十分なほどひどいものだということを、起きている現実が証明しているということである。 そうでなく、たんなる政治的思惑による策動の結果でしかないと言い張るなら、それを阻止

    「反ファシズム戦争」の論理を越えて - Arisanのノート
    smtz8
    smtz8 2012/03/14
    『ファシズムという~効果を持つべきでもない(この文章全部)』単に実在する/したファシズム国家や全体主義思想に対抗するだけでなく、このような思想・状況に対抗するのこそ「反ファシズム」の本質だと思う。
  • 薛丑子老人の話(樊家山) - 黄土高原 紅棗がみのる村から

    第一回、日人は西の方からやって来た。あのとき私は8歳で、学校に通っていた。彼らは裏の方の谷から突然やってきた。我々がちょうど日人と戦う物語を読んでいたときだった。当時村人は、最初は彼らがどこの軍隊かわからなかった。みなカーキ色の軍装を整えていた。隣村の賀家湾に着いてから大砲と機関銃を撃ちだした。これは第一回目に来たときで、村人も逃げなかったし、日人と出会っても何もされなかった。1938年のことだ。その後三交が占領され、ここにもしょっちゅうやってくるようになった。我々も民兵を組織し、日人も殺人を開始した。 1941年が一番ひどかった。三光政策で捉まえたらすぐに殺した。私の叔父は1937年に村の主任になったが、民兵の分隊長でもあった。それから従兄弟が17団の班長だった。その後私は石門焉へ行って、ひとりの金皮隊の人間と友達になった。この金皮隊は、ほんとうは共産党で、私は彼に連れられて石門