魚になること、物語になること。 (『CUT』2005 年 8 月) 山形浩生 ウラジーミル・ナボーコフは、小説を読むときの感情移入を卑しい読み方だとしている。小学校の読書鑑賞文では、しょっちゅう「主人公の気持ちを考えましょう」とか「あなたならどうしますか、主人公になったつもりで考えましょう」あるいは「作者の意図はなんでしょうか」なんて課題が出る。でも、そんなのは小説の読み方としてはむしろ不純なのである、とナボーコフは語る。なぜかといえば、それはしょせん、お涙ちょうだいやお笑いの域を出るものではないからだ。なにやらカップルが引き裂かれてまた出会うような話をつくれば馬鹿な連中はすぐに「感動」とか口走る。女子供に(大したことない)苦労でもさせとけば、みんなすぐに涙を流す。くだらない。そんなものを求める連中は、別に小説でなくったっていいのだもの。 ナボーコフは、この『グールド魚類画帖』を読んで何と