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文化&宗教と歴史に関するspiralspiderのブックマーク (68)

  • いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」

    シベリア奥地の湖に浮かぶポル=バジンは、一見したところ城塞にも監獄にも見える。だが、1300年前に作られたと思われるこの長方形の島について、はっきりしたことは何一つ分かっていない。誰が建て、なぜ放棄されたのか、その使用目的すら謎に包まれている。 歴史家と科学者からは様々な見解が示されており、人を収監するのではなく、むしろ人を呼び込むための施設との説、あるいは離宮、修道院、天文観測所なのではないかと推測する専門家もいる。 トゥバ語で”土の家”を意味する『ポル=バジン』は、モスクワから3800km離れたモンゴルとの国境付近に延びるサヤン山脈とアルタイ山脈の狭間に位置する。最初に発見されたのは1891年のことであるが、1世紀以上経った今現在も作られた目的はおろか、捨てられた理由も分かっていない。 この画像を大きなサイズで見るシベリア南部の山間にある、人里離れた湖の中央に浮かぶ謎の島ポル=バジン。

    いったい誰が?何の目的で?謎に包まれたシベリアの孤島にある1300年前の遺跡「ポル=バジン」
  • 天空の古代遺跡「シーギリヤ」がすごい--ドローンが撮影 [えん乗り]

    ■シーギリヤの天空宮殿 シーギリヤは「獅子の岩」という意味で、スリランカ中部に立つ巨大な岩山とその上にあった宮殿にして要塞を指す。5世紀に当時の王カッサバ1世が、城とそれを取り囲む水路、庭園、貯蔵施設などを造営したという。周囲は切り立った崖になっており、高さは 200m 近く。まるで天空に浮かんでいるかのようなこの遺跡からは、当時の建築と土木工学の水準の高さがうかがえる。 だが当時、魔法のような宮殿に長く人は住まなかったという。王は自らの一族と争って命を失ったという悲劇の物語も伝わっている。 ちなみに岩山の中腹には「シーギリヤの貴婦人」と呼ばれるフレスコ画の美女達が描かれており、現在も妖艶な微笑を浮かべながら訪れる客を迎えるそう。スリランカにある唯一の非宗教的な壁画とも言われる。なお、H.I.S. は動画の人気にあやかり、スリランカを訪れてシーギリヤに登頂できる特別ツアーも企画している。

    天空の古代遺跡「シーギリヤ」がすごい--ドローンが撮影 [えん乗り]
  • 謎の古代文明の遺跡を中米で複数発見、マヤとは別

    ※この発見についての詳細は、2015年12月30日発売の『ナショナル ジオグラフィック日版』2016年1月号で、見つかった都市の想像図や写真を含めて詳しく紹介します。 一部が人間で一部がジャガーの姿をした石の彫像。ホンジュラスの密林奥深くに眠る遺跡では、この他数多くの出土品が見つかった。(PHOTOGRAPH BY DAVE YODER, NATIONAL GEOGRAPHIC) ホンジュラスの密林へ分け入った探検隊が、失われた文明の遺跡を発見したという驚くべき報告を携えて戻ってきた。この地域には昔から「猿神王国」あるいは「シウダー・ブランカ(白い街)」という古代文明にまつわる伝説が存在し、その遺跡がどこかに眠っているといわれてきた。探検隊はその場所を確かめるために、人里離れた未開のジャングルへと足を踏み入れた。 発見された遺跡は今からおよそ1000年前に栄え、その後滅びた文明のものと思

    謎の古代文明の遺跡を中米で複数発見、マヤとは別
  • 古代神話のオシリスの墓、発見

    シャフトを下るとそこには…ナイフをもった悪魔の間が… ルクソール西岸シェイフ・アブデル・クルナのネクロポリス(死者の町)で、古代神話オシリス神の墓をそっくり模した3200年前の墓が見つかりました。 オシリスの墓といえば古代エジプト最古の都のひとつ、聖地アビドスにある神殿「オシレイオン」が有名ですよね。 今回見つかったのはもっと年代の新しい墓で、構想的にはオシレイオンとほぼ同じ。冥界を統べる神オシリスの像(エメラルドに輝くご神体)は、中央の円天井の礼拝堂にあり、地下に続くシャフト(下図の中央にある竪穴)を9mおりると第1層の地下室、さらに6mおりると第2層の地下室2間に至ります。 ナイフを持った悪魔のレリーフが印象的な霊安室があるのは、中央礼拝堂の西側(上図では左側)にある空き部屋の前からシャフトを7m降りたところ。そして、同じシャフトを一番下まで降りていくと、そこには残骸だらけの部屋が2間

    古代神話のオシリスの墓、発見
  • 「元の姿がよくわかる…」ローマ帝国の遺跡ハイデントーア(異教徒の門)に設置されたアイデアが秀逸 : らばQ

    「元の姿がよくわかる…」ローマ帝国の遺跡ハイデントーア(異教徒の門)に設置されたアイデアが秀逸 ローマ帝国の軍駐屯地だったカルヌントゥム(オーストリア)にある、こちらの凱旋門の遺跡はハイデントーア(異教徒の門)と呼ばれ、西暦354〜361年に建設されました。 長い歴史を感じますが、建設当時の姿がわかりにくいのも事実。 それを上手に解決していると感心されていた、現地の写真をご覧ください。 遺跡の横には、透明なボードが設置されています。 近づいて覗いてみると……。 おお、元の壮麗な姿がはっきりわかる! 同時に今の姿との差もよくわかります。 逆側から見た写真。 ハイデントーアは、石の窃盗や、15世紀のトルコ戦争による火薬によって大きく損傷したそうです。 1655年に描かれた絵。 1840年に描かれた絵。 現在の姿でも、かなり復元や保存に努めた結果なのがわかりますね。 現在のオーストリアに位置する

    「元の姿がよくわかる…」ローマ帝国の遺跡ハイデントーア(異教徒の門)に設置されたアイデアが秀逸 : らばQ
  • 4500年前の墓発掘、古代エジプト王妃の名前判明

    エジプトの首都カイロ(Cairo)南西の都市アブシル(Abu Sir)で見つかった「ケンタカウエス三世(Khentakawess III)」のものとみられる墓(2015年1月4日提供)。(c)AFP/HO/EGYPTIAN MINISTRY OF ANTIQUITIES 【1月5日 AFP】エジプト考古省は4日、これまでその存在についてあまり知られていなかった王妃の墓が、チェコの考古学者チームによって発掘されたことを発表した。この墓は、4500年前に古代エジプトを統治したネフェルエフラー(Neferefre)王の王妃のものと考えられるという。 この墓は、エジプトの首都カイロ(Cairo)南西の都市アブシル(Abu Sir)で見つかった。同地には、ネフェルエフラー王を含む古代エジプト第5王朝(紀元前2494年~2345年)の王たちが埋葬されたピラミッド群がある。 ネフェルエフラー王のの名前

    4500年前の墓発掘、古代エジプト王妃の名前判明
  • 世界の数だけ魔女がいた。14世紀から18世紀までの美術史に残る魔女の姿

    何世紀も前から人々が恐れをいだいてきた超自然的存在である魔女。魔女が使う魔術を恐れるがあまり、中世のヨーロッパの人々は「魔女狩り」などという愚行を行っていた。世界の数だけ魔女はいる。現代の日において魔女っ子は大きなおともだちの偶像崇拝の対象となっているわけだが、かつての書物にでてくる魔女はおどろおどろしく描かれていた。 1.魔女の火あぶり 14世紀 この画像を大きなサイズで見る 2.箒にまたがって農婦に向かって飛んでいく魔女と悪魔と魔法使い 1400年代 この画像を大きなサイズで見る 3.マルタン・ル・フランの長編詩『女性の擁護者』の余白に描かれた魔女 1451年 この画像を大きなサイズで見る 4.ヒエロニムス・ボス「聖アントニウスの誘惑」の一部 1495年から1515年の間 この画像を大きなサイズで見る 5.山羊の背に乗る魔女 アルブレヒト・デューラー 1500年代 この画像を大きなサ

    世界の数だけ魔女がいた。14世紀から18世紀までの美術史に残る魔女の姿
  • 妖精の語源まとめ、何故16・17世紀英国で妖精が大流行したのか? | Kousyoublog

    公開日: 2012/12/04 : 最終更新日:2014/02/06 カテゴリー:文化 タグ:UK, キリスト教, 中世, 思想, 欧州, 神話伝承, 科学, 言語, 近世 妖精fairyの語源は、定説となっているのはラテン語のfatum(運命)でこれが中世フランス語のfayに転じ、魔術に長けた女性を意味するようになった。このfayが十四世紀に英国に入り、「fayのかける魔法」を意味するfayerieが派生、その後fayerie がfairyになったとされている。Fairyという語の初出は1590年のエドマンド・スペンサー著「妖精の女王」で、フェアリー国の住民をFay、Fee、Fary、Fairy、Elf、Elfinと呼んだ。(井村「妖精学大全」P80)アイルランド、スコットランドではゲール語で「土塚、丘」を原意として「丘に住む人」という意味を持つ「シー」:Sidh、sith、sid、s

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