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Steve Jobsに関するsugimo2のブックマーク (7)

  • 大槻ケンヂ×みうらじゅん “スティーブ・ジョブズ”をガチで語る! - 週刊アスキー

    世間を騒然とさせた、週刊アスキー12月6日号連載『R40』の“スティーブ・ジョブズ”談議! 「ジョブズって誰?」な2人の気トークを完全版で大公開!! みんながパソコンやってると思うなよ ふざけんなと言いたい! 大槻 最近は、ご老人でもパソコンやってるかたおられますよね。パソコン教室とか行って。 みうら うちの親父も、なんかパソコンやってるみたいで。「お前、2ちゃんねるで悪口言われてるぞ!」って、親父から聞くとは思ってなくて! 大槻 ハハハハ! やな時代ですねえ! みうら やな時代だよ。オレは、2ちゃんとか見たこともないのに。大槻くんも見ないでしょ? 大槻 見ないです。 みうら 「見てない!」ってはっきり挙手して言うべきだね。一生見る気もないし、見ていませんって。 大槻 そうそう、オレ、スマホ持ってたんだけど壊れちゃって。で、カスタマーセンターに電話して「壊れちゃったんですけど」って言った

    大槻ケンヂ×みうらじゅん “スティーブ・ジョブズ”をガチで語る! - 週刊アスキー
  • 「スティーブ・ジョブズさんのスピリットは生き続ける」福田尚久さん | 制作後記 | クローズアップ現代 スタッフルーム:NHK

    福田尚久さんインタビュー 「スティーブ・ジョブズさんのスピリットは生き続ける」 福田尚久さん,93年アップルコンピュータ入社,97年同社事業推進部長,99年同社マーケティング部長,01年米国社副社長,02年退社 現在は日通信株式会社専務 10月12日の放送「世界を変えた男 スティーブ・ジョブズの素顔」では、97年から2002年までジョブズさんとともに仕事をした福田尚久さんにインタビュー取材をさせていただきました。ジョブズさんの人物像に迫るあまりにも貴重なインタビューのため、放送で紹介できなかった部分も含めて、福田さんの許可を得て特別に掲載させていただきます。 理想と現実がちがうことを悔いていたジョブズさん 2人で話しているときに、彼が「自分には1つだけ悔いの残ることがある」と言ったことがありました。それは「85年にアップルを辞めてしまったことだ」と。「もしあのときに自分が辞

  • ジョブズが黒タートルを着た理由が今明らかに。きっかけは日本

    ジョブズが黒タートルを着た理由が今明らかに。きっかけは日2011.10.14 21:0022,717 satomi スティーブ・ジョブズと言えば黒のタートル。 黒のタートルネックを年がら年中着たお陰でジョブズは「世界で最も覚えやすいCEO」になりましたけど、人は実は最初あれではなくソニーみたいな三宅一生のナイロン製ジャケットを会社の制服にしたかったのだけど提案したら社員たちに却下され、それでしょうがなくひとり寂しく制服を着ていたのだそうな。三宅一生の着ていたタートルをこしらえてもらって...。 そんな知られざる黒タートルの秘話を自伝著者ウォルター・アイザクソンに生前ジョブズ自らが明かしていました。以下がその世界初公開のインタビューです。 今ではジョブズのファッション・チョイスもいっぱしのビジョナリーという定評です。著名デザイナーのラルフ・ルッチをして「あのリーバイス501と黒タートル

    ジョブズが黒タートルを着た理由が今明らかに。きっかけは日本
  • Modern Syntax

    クラングフォニックス(Klangphonics)というドイツの3人組のバンドはコーヒーメーカーや高圧洗浄機、エアーコンプレッサー、そして様々な家庭用品などを使ってテクノ・ミュージックを作ることを得意としているようです(YouTubeのチャンネル)。 んで、今回ご紹介するのはミシンをメインにしたものです。これがかっこいいんですよ。 このクラングフォニックスですが、結構ライブ活動に力を入れているようで、曲ごとに使うアイテムが違うだろうからそれらの搬入とセットアップがたいへんなんだろうなあ。 今回のモダシンラジオは3ヶ月に一度お届けしている2024年7月-9月期のドラマ、いわゆる夏ドラマについて@yumikingdiaryと語る回です。 このドラマについて語る回は毎回長くなりがちなので、できるだけ短くしようと努力したのですが、リモート録音の弊害でお互いに息が合わず無音部分も多くなってしまったこと

  • 「世界を変えたくないかい?」 ジョブズはどうやって変え続けたのか:日経ビジネスオンライン

    スティーブ・ジョブズが急逝した10月6日(現地時間5日)の夜、私は何件かのテレビ取材を受けた後、お茶の水のデジタルハリウッド大学で行われていた追悼記念イベントに向かった。スピーチを求められ、ひな壇に上がると、後ろのスクリーンにはジョブズの写真が大写しで表示されていた。 その時、自分が置かれた立場を見て、私が思い出していたのは奇しくもちょうど12年前の同じ日のスティーブ・ジョブズのことだった。 12年前との符合 1999年10月6日(現地時間5日)の朝、ジョブズはデ・アンザ大学のフリント講堂の壇上に立っていた。ここは1984年に初代Macintosh――ジョブズが当にやりたい通りにやり抜いて作った最初の製品――が発表された場所だ。 講演の開始直後、ジョブズの後ろのスクリーンに映っていたのは、ある日人の写真だった。製品発表直前の10月3日に急逝したソニーの創業者、盛田昭夫氏だ。脇には「Th

    「世界を変えたくないかい?」 ジョブズはどうやって変え続けたのか:日経ビジネスオンライン
  • ジョブズとぼくらは勝ったのか? - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

    アップル社のスティーブといえば、いまだとジョブズだが、30年以上前、アップル社の最初のヒット作品であるAPPLE IIの時代には、もうひとりいた。スティーブ・ウォズニアックだ。APPLE IIを設計した天才エンジニアであるウォズニアックはウォズの魔法使いとか呼ばれて、パソコンマニアの中では、もっとも尊敬される人物のひとりだった。だから、当時のアップルファンにはスティーブといえば、ジョブズが好きか、ウォズニアックが好きかという定番の話題があったのだ。 もちろん、ウォズニアック派がほとんどだった。ジョブズは天才エンジニアのウォズニアックをうまくつかまえて大儲けをしたビジネスのひとだと思われていたから人気がなかった。 第一次パソコンブームの当時、日でもそういう天才プログラマをうまくつかって大ヒットソフトをつくって大儲けするビジネスマンや大人たちといった構図はあちこちで見られたから、まあ、ジョブ

    ジョブズとぼくらは勝ったのか? - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
  • ジョブズの死を知って(談話 林信行) - 週刊アスキー

    ジョブズの死は今朝の会中、iPhoneが鳴り続けていたので「何かあったのかな?」と、後にTwitterを見て知りました。ショックでした。これまでも誤報が幾度かあったので今回もそう思いたかったのですが、信頼できるメディアに掲載されていたので、間違いないと確信しました。それにしても早すぎます。当に残念です。 私がスティーブ・ジョブズと直接話したなかでも印象に残っているのは、最後のJDC(日開発者会議、現在はWWDCに統合)があった1997年、(JDCを)どうしてやめるんだと詰め寄ったときですね。今思えばそうとう失礼な感じだったと思うのですが、「日市場を大事に思っている。ひとつのカンファレンスに注力し、グローバルに展開することにベストを尽くしたいのだ」と丁寧に応えてくれました。そして後年、その意味がよくわかりました。 ジョブズがアップルに戻ってきてからの15年間、とくにiPhoneを発

    ジョブズの死を知って(談話 林信行) - 週刊アスキー
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