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ブックマーク / p-shirokuma.hatenadiary.com (6)

  • 日本人が失ったのは「寛容」ではなく「身内」では? - シ口クマの屑籠(汎適所属)

    「最近日から寛容さが失われている」のは何故か - Togetterまとめ 新幹線の車内ではしゃいでいる子どもや、夜遅くまで騒いでいる大学生に対し、私達はどれだけ寛容な気持ちを保っていられるだろうか?次世代を担う子ども達の、年齢相応の振る舞いに対してさえも、寛容よりも非難が勝る人が増えているのではないだろうか? 寛容さとは正反対の、きわめて自己中心的な人達もよく見かけるようになった。自分の意に沿わない相手に攻撃的な人間や、他人に際限なく要求する人間が、モンスター○○などと呼ばれて問題視される時代でもある。*1 これらを踏まえて「昔の日人が寛容」で「現代の日人は寛容じゃなくなった」と結論づける人は多そうだ。少なくとも、見かけ上、日から寛容さが失われたように見えるのはその通りかもしれない。 「身内」には寛容でも「他所者」にはそうでもなかった日人 では昔の日人は、当に寛容だったのか?

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  • ゲームやアニメがライトな趣味になっても、困る人はあまりいないのでは? - シロクマの屑籠

    http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1531241.html 昔、子どもじゃないのにゲームやアニメを深く追求する人達が「おたく」と呼ばれた時代があった。 昔、セガサターンや深夜アニメを愛好している人達が、自嘲気味に「オタク」を自称した時代があった。 ところが今はまったく違う。 ゲームやアニメがコミュニケーションの触媒として――それこそ、かつてのトレンディードラマやミリオンセラーのように――用いられることに違和感がなくなっている。ゲームやアニメの話題がコミュニケーションを橋渡しするための“便利な”アイテムと化し、それどころか、ゲームやアニメのデザインがプリントされた衣服を“オシャレ”の一環として取り扱う人まで現れるようになってきた。 10〜15年ほど昔、ゲームやアニメのTシャツを着ていたのは、良くも悪くも当にゲームやアニメが好きで好きでしようが

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    sumakin
    sumakin 2010/08/25
  • 普通の人が尊敬できないように育てられた人達

    「普通の人が尊敬できないように育てられた人達」。 特別な職業やメディアに登場するスターのようなキャラクターしか尊敬の対象にできないような・普通の職業の人やクラスメートには軽蔑に近い印象をデフォルトで抱いているような、そういう境地の人達が、まだまだ世の中には存在する。 【メディアスターや凄い人しか尊敬できないような育て方をすると…】 「三つ子の魂百まで」と日の諺にあるけれども、これは「誰をどう尊敬するか」の分野でもかなり当てはまる。小さい頃、どんな相手をどんな具合に尊敬するように育てられたのかは、性分としてこびりつきやすく、後々まで尾を引きやすい。 例えば、小さい頃から花形職業・メディアスター・伝記になるような偉人ばかり尊敬するように教え込まれ、近所の人や普通の職業の人なら見下しても構わないという家族の目線のなかで育ってしまった人は、その価値観を内面化させてしまいやすい。「尊敬対象かくある

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    sumakin
    sumakin 2010/08/23
  • 『サマーウォーズ』の大家族は、ぜいたくな懐古趣味に過ぎないのか - シロクマの屑籠

    先日、サマーウォーズ見たら死にたくなったという記事をみて、アホらしいと一笑に付していたけど、実際に映画館で『サマーウォーズ』をみているうちに、笑って済ませられなくなってきたので、文章にまとめておこうと思う。 リンク先の文章のように、“能力的に優れている人達の物語”というのも、羨ましがるポイントの一つかもしれない。しかし、それよりも私が羨ましく思ったのは、あの映画のなかで一貫している、血縁共同体内の承認と信頼のシステムとか、一族の理想とか、アイデンティティの牽引役としての年寄りとか、そういう描写のほうだ。 大家族は希少品、栄ばあちゃんも希少品 『サマーウォーズ』は、大家族の素晴らしさを描いた作品だ。けれどもあの大家族、どうみても希少な贅沢品の類である。ああいう大家族を維持しようと思っても、今日日、そのための基盤があまりにも失われている。[都市郊外への進出] [核家族化] [個人の自由と利便性

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  • 『とらドラ!』で描かれた、母性のエゴイズムへの“処方箋” - シロクマの屑籠

    とらドラ10! (電撃文庫) 作者: 竹宮ゆゆこ,ヤス出版社/メーカー: アスキーメディアワークス発売日: 2009/03/10メディア: 文庫購入: 7人 クリック: 103回この商品を含むブログ (288件) を見る 『とらドラ!』がめでたく完結した。この方面の娯楽作品としては素晴らしいクオリティで、ずっと楽しませてもらった。しかもただ面白いだけでなく、あれこれと考えさせられる内容でもあった。 思春期を取り扱った作品の多くがそうであるように、この『とらドラ!』もまた、主人公達が自己決定していく物語であり、“親世代や社会との軋轢”*1に直面しながらも、それらと折り合いをつけていく描写が作中に含まれている。アニメ版25話で、実乃梨が自己決定について泣きながら訴えていた内容などは、思春期モノの作品では珍しくない。 とはいえ、幾つかの点で『とらドラ!』はいかにも今風で、興味をそそられる。 まず

    『とらドラ!』で描かれた、母性のエゴイズムへの“処方箋” - シロクマの屑籠
    sumakin
    sumakin 2009/03/28
  • 優越感ゲームに動員されるiPodと音楽 - シロクマの屑籠

    iPodやウォークマンは、いつでもどこでも音楽を聴くことができるアイテムとして流通した。これらの商品さえ用いれば、「周りの人に気づかれずに」こっそりと自分だけの音楽空間を作り上げることができる(当たり前なんだけど)。この、独り音楽空間を用いれば、周りの人達に抑圧されている*1状況に際して、自らのメンタリティを抑圧から切り離して優越感ゲームに耽ることができる。 このアイデアを再確認する機会を与えてくださったのは、隣の席に座るひとびと - 古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」という記事だった。[妄想]というタグが張ってあるので、実話ではないのかもしれないが、非常にリアリティのある物語だ。自分の能力や価値観が評価されることのない状況で汲々としている人も、iPodさえ用いれば「お前らには俺のこういう音楽を理解することができないんだろうな」と優越感に浸りながら自分の世界に没

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